2024年11月23日( 土 )

シフトライフ、100億円へ王手 樋口社長の経営原点をたどる(中)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ
法人情報へ

ダックス創業者から学んだこと+対人遊泳術

 会社名は(株)ダックスであった。この会社の経営者は以前に不動産上場会社にてナンバーツーの立場で辣腕ぶりを発揮してきた有名な人物である。当然、新生住宅においても飛びぬけていた(短期間の在籍であったが)。営業基本方針は販売代理である。ただの販売代理ではない。自ら事業計画を練りあげて販売するのである。業界を知るほど、「なんだ!それは?」と首を捻るであろう。要は「金融リスクに手を染めずにマンション事業を遂行する」という販売戦略であった。これを事業化し、達成するには「抜群の人たらしの術」がないと無理だ。

 このダックス創業者は、九電工とベスト電器に的を絞った。当時の九電工社長とベスト電器オーナーに絶大なる信頼を得ていたからだ。九電工の子会社九電工ホーム(当時)を経由して、マンションの販売実績を築き上げていった。九電工側にとっては、事業資金を肩代わりするだけで事業実績が転がってくるビジネスモデルであった。ベスト電器の場合は、遊休不動産を数多く所有していたため、その土地開発の提案していった。結果、数多くの案件を処理できたベスト電器側にも悪い話ではなかった。

 このダックス副社長として経験したこと。まずは樋口社長の人脈が拡大されたことである。数が増加したという意味ではない。大人物の口説き方を学んだのである。今までは設計士という専門分野の延長から不動産事業の立ち上げをマスターしてきた。ところが、ダックス副社長時代には大物人材の活用術を会得した。別次元の社交界に首を突っ込むことができた体験は樋口社長の世界観を変貌させた。

 思わぬところから幸運も転がってきた。ダックスオーナーが自ら独断で会社を転売してしまったのである。このオーナーに筆者は、「会社を売るような馬鹿なことはしない方が良い」と勧告を再々したが功を奏しなかった。そこで、樋口社長は粛々と会社設立を進めていった。

50歳で独立断行

 筆者は47歳で(株)データ・マックスを立ち上げた。「企業調査マン20年を経験しての用意周到に事業を起こした」と現時点で総括している。樋口社長も紹介した通りに、いろいろな事項を習得した結果、企業独立の運が転がってきたのである。何事につけても準備万端でないと納得せずに動かない性格であるが、会社が売られるのであれば立つしかない。

    時は2006年8月のことである。(株)シフトライフを設立した。中核メンバーは新生住宅元同僚であった。先ず手始めには元同僚を社長に据えた。樋口社長は専務に就いたのである。冒頭紹介したように、樋口社長の経営者としての特性は「俺が俺が」という我欲が薄いということであった。元同僚が「社長への欲が強いな」と読んで、「俺は専務で満足しているよ」と伝えた。この伝言を耳にして相手は安堵した。ところがだ。元同僚社長は体調を壊して1年で社長の職から退いた。そして、07年9月に樋口由紀夫社長が誕生したのである。このレポートに目をやりながら読者は「樋口社長は自然体で対応してきた」ことを理解できたであろう。

ライオンズクラブ同志として

 福岡博多ライオンズは福岡において5番目に古い倶楽部である。筆者は樋口社長をこのライオンズクラブに入会させた。彼の資質特性のなかで「社会貢献意識あり」と感じ、「熱心な活動をする」ことを見越して入会勧誘を行った。結果は予測していた100倍の活躍をしてくれた。14年の「福岡博多ライオンズクラブ50周年」事業において、如何なくその力を発揮してくれたのだ。

 筆者は50周年のガバナーを仰せつかっていた。ライオンズクラブには「三役」という重要ポストがある。会長に次ぐ重要ポストが幹事である。このポストを樋口社長にお願いした。即決で受けてくれた。50周年に臨んで筆者はクラブ有志に1人100万円の供出依頼をした。大半は筆者が入会させた「刎頸の友」であった。13年末には100万円×5=500万円、さらにプラスアルファ―で600万円余が集まった。あと事業資金も集まる予定だったから財源のメドはついた。「1,500万円を超える50周年事業が可能だな」と目算した。

 そこで樋口幹事に「最大のイベント事業を考えていただきたい」と依頼した。「14年の年明けには回答します」というものであった。だが、それよりも早く回答が返ってきた。「我がクラブの発祥の地は旧博多地区であります。この地区には4つの小学校区があります。この4区に青パトを寄贈するのは如何でしょうか。予算は700万円以内です」というものであった。「それをやりましょう」と即決した。手続きは「50周年実行員会」の承認を得た。

 2014年6月。梅雨でありながら快晴日であった。博多小学校のグランドにて青パト贈呈式が行われた。博多小校区の住民代表者を始め町内会面々、博多区長、博多署長などが列席して華やかに行われた。我々ライオンズクラブメンバーは青パト4台に乗車した。白パトが先導する後に従って、お披露目として博多小学校区の大通りを走った。こんな爽快な気分に浸ることができたのは久しぶりであった。今でも鮮明に覚えている。

 トータルで1,500万円の事業を完遂した。このビッグイベントを10年経って振り返る。筆者は「俺は何をやったかな」と考える。些細なことしかやっていなかった。「当初、資金集めをしたことは会長として当然の責務。その後は神輿に乗っただけだ」という記憶しか残っていないのだ。樋口幹事の段取りのうえに乗っかったに過ぎないのであった。同氏の企画力に始まって実行員会の掌握力、交渉力すべてにおいて脱帽の手腕だった。「福岡博多ライオンズクラブ50周年事業の最大の立役者であった」と、現時点でも評価している。14年の1年間、樋口幹事にはお世話になった。ただ感謝あるのみだ。

 不動産事業者にはただ不動産を転がすか、土地活用の企画しか眼中にない人が多い。ただ樋口社長は毛色が大きく違う。「機会があれば社会貢献をしよう」という使命感が沸々と燃えているようである。前記した通りに、青パトを博多小学校区へ寄贈するというシナリオづくりからして鮮やかな手際であった。今後、縁があれば樋口社長と社会貢献事業に挑戦してみたい。

(つづく)

(前)
(後)

関連記事