現在の日本を活性化させるため、縄文時代から学び得るものはあるのか?(前)
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縄文アイヌ研究会主宰
澤田 健一 氏縄文時代に関する研究の進展により、当時の日本は外に開かれた世界でありながらも、内で平和な理想郷を築いていたことがより明らかになってきた。1万年以上も戦争がなく、豊かな食生活に支えられ、高度な芸術作品を量産して、1つの集落が数千年間も存続していた、まさにユートピアであった。現在、課題となっているSDGsを1万年以上も前に完成させていたのだ。その集落の様子を振り返りながら、現在の私たちが何を学び得るのかを考える。
縄文時代の姿
近年、縄文遺跡の発掘調査や科学的な解析(たとえば放射性炭素年代測定や核DNA解析など)手法の向上により、縄文時代の真の姿が徐々に明らかになってきた。まずは簡単に縄文時代の暮らしを見るところから始めていこうと思う。
よく指摘されることであるが、縄文時代の日本列島は1万年以上にもわたって戦争のない平和な時代だった。これほどの長期間を平和に暮らした民族は、世界中に日本民族しか見当たらないだろう。そのため、集落の存続期間も信じられないほど長い年月におよび、たとえば北海道の垣ノ島遺跡(函館市)は6,000年間、常呂遺跡(北見市)や標津遺跡群(標津町)に至っては8,000年間にもわたって集落が営まれてきた。平和で持続可能な社会、究極のSDGsである。
さらに縄文集落では介護を行っていた形跡が見られる。北海道の入江貝塚(洞爺湖町)から出土した「入江9号人骨」(縄文後期の成人男性)は、頭や体幹の骨は通常の大人と変わらないが、手足の骨が異常に細く、「筋萎縮症」を患っていたことがわかった。長期にわたり周囲の人々の手厚い介護を受けながら日常生活を送っていたようで、少なくとも十数年間にわたり介護を受け続けていたのである。
そして季節ごとにさまざまな植物を採集しており、漁猟や狩猟も行い、豊かな食生活を送っていた。集落の周囲には栗やドングリなどの堅果類の樹木を植林しており、その実を大量に保存するために数多くの貯蔵穴をつくり、その数は数十から200以上にもおよぶ。その樹木が人工林であることは、それらの遺伝子が均一であることから判明している。
縄文の人々は食べることに困るどころか豊かな食生活を送っていたようで、縄文クッキーと呼ばれるお菓子のようなものもつくっていたようである。青森県の三内丸山遺跡(青森市)や秋田県の池内遺跡(大館市)ではお酒のつくりカスが出土していて、ニワトコの実など数種類の植物からお酒をつくっていた。少なくとも両遺跡で酒づくりに使用した植物の成分比が一致していることから、酒づくりの共通したレシピがあったのではないかと思われる。
豊食であったからこそ、食糧を奪い合う戦争も起きなかった。ちなみに資源に乏しいイースター島では食糧を奪い合う戦争が島全体で起こり、各集団の守り神であるモアイ像を互いに引き倒しあい、最後には島内すべてのモアイ像が倒された。しかし縄文集落ではそうした食糧戦争が起きなかった、これは非常に重要な事実である。
また、縄文人は料理においてコクを出していたようである。北海道の大正3遺跡(帯広市)から出土した土器についていたお焦げの炭素・窒素同位体比分析によると、約1万3,000年前という結果が得られた。その土器でサケを煮て浮いてくる油を採取して、調味料や燃料として使っていた可能性が高いことがわかり、これを「魚油採取説」という。
ところが、フランス料理でも中華料理でもイタリアンでも、「コク」という概念がなく、20世紀になっても日本人がいう「コク」という概念を理解できなかったそうである。概念がないのだからそれを表す単語は存在しておらず、英語ではRich、中国語では富有的と表現するが、何か少し違う感じがする。それに対して「魚油採取説」が正しければ、日本民族はそんな1万3,000年も前の大昔から「出汁」で「コク」を出して、贅沢(リッチ)な味を楽しんでいたことになるのである。
そもそも、1万6,500年前から煮炊き料理をし始めていることが驚異的である。土器が煮炊きの道具であったことは、付着した煤や焦げ付きからわかる。それは土器を焼成したときの焼きむらとは別物の変色なのである。煮たり茹でたり蒸したりすることで食べられる食材が増え、また殺菌や食べ物の消化という面でも食生活が改善されてきた。
こうして縄文人はより多くの栄養を取り込んでいったのである。私たち日本人が長寿である要因は縄文時代からの蓄積といえるだろう。私たちの体内に摂取された豊富な栄養素の蓄積は、他民族と比べて1万年ものアドバンテージがあるのである。
さらには、縄文土器は単なる煮炊きの道具という範疇を越えて、もはや芸術作品の域に達している。火焔型縄文土器を見た岡本太郎は「なんだ、これは!」と叫んだという。精緻でありながらも爆発的なインスピレーションを与える縄文の芸術作品は、今でも私たちに感動を与えてくれる。
しかも、非常に硬いヒスイの加工を行って、美しい曲線をもたせ、それに穴まで開けてしまう。ヒスイの加工は縄文時代からになるものの、一般的な石の研磨・穿孔(穴を開けること)技術の発祥は後期旧石器時代にまで遡る。日本列島各地では3万8,000年前から、研磨された石斧(刃部磨製石斧と呼ぶ)がすでに1,000本以上も出土している。
それに対して、ヨーロッパで石の研磨が始まるのはせいぜい1万年前である。日本から遅れること2万8,000年も経ってから、ようやくヨーロッパは日本に追いついたのである。日本の技術はそれほど世界の最先端を独走していたのであるが、おそらく多くの日本人はこうした事実を知らないだろう。
このように、縄文時代とは豊かな食生活に支えられ、高度な芸術作品をつくる技術と知性をもって、困った人を介護し支え合う福祉社会で、戦争のない平和な社会が1万年以上も続いた理想郷であり、1つの集落の存続期間が6,000年〜8,000年間にもおよぶという、現在から考えるとユートピアのような世界だったのである。繰り返しになるが、これこそ究極のSDGsである。
(つづく)
<プロフィール>
澤田 健一(さわだ・けんいち)
1964年、札幌市生まれ。同志社大学工学部卒。既存の枠にとらわれず、歴史・考古学を独自に学ぶ。思いつくまま読み・調べ・歩き・聞き・見ることを旨とし、文献やデータを忠実に読み解き、歴史の真実に迫ることを目指している。縄文アイヌ研究会主宰。著書に『縄文人の日本史』『夷の古代史』『古代文明と縄文人』『大和朝廷vs邪馬台国』(いずれも柏艪舎刊)。[著書紹介]
縄文人の日本史縄文人からアイヌへ
夷の古代史邪馬台国そしてアイヌ(縄文とアイヌ)
古代文明と縄文人~世界に広がる日本の夷(えびす)~
大和朝廷vs邪馬台国 古代、二つのヤマトの戦い関連記事
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