2024年12月23日( 月 )

現在の日本を活性化させるため、縄文時代から学び得るものはあるのか?(後)

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縄文アイヌ研究会主宰
澤田 健一 氏

 縄文時代に関する研究の進展により、当時の日本は外に開かれた世界でありながらも、内で平和な理想郷を築いていたことがより明らかになってきた。1万年以上も戦争がなく、豊かな食生活に支えられ、高度な芸術作品を量産して、1つの集落が数千年間も存続していた、まさにユートピアであった。現在、課題となっているSDGsを1万年以上も前に完成させていたのだ。その集落の様子を振り返りながら、現在の私たちが何を学び得るのかを考える。

外に開かれていた縄文世界

 ところで、多くの人は縄文時代の日本について、内に閉ざされていた社会と捉えているのではないだろうか。実は縄文は外に開かれた社会であった。三内丸山遺跡の六本柱の巨大な構造物の柱は栗の木であり、地中部分も含めると全長20m近くにもなる(この長さを算出したのは大林組)。しかし国内の栗の木は5,6mを超えると枝分かれしてしまう。条件を満たす栗の木を探したところ、ロシア西方のソチ市で見つかった。

三内丸山遺跡の六本柱
三内丸山遺跡の六本柱

    同じくロシア西方から世界最古の木製の彫像が出土していて、シギルの偶像と呼ばれるが、その彫像はドイツの年代測定によって1万1,000年前のものと判明した。その彫像の顔や体には数多くの線が刻まれていて、明かにイレズミをしていた人々の像なのである。イレズミのある縄文人がロシア西部まで出ていって、20mもまっすぐに伸びた栗の木を見つけて、日本まで持ち帰ったのではないか。

 また、約1万年前の福井県と滋賀県の遺跡からはアフリカ原産のヒョウタンが出土している。アフリカから日本列島まで流れてくる海流などは存在しない。つまりアフリカまで行った縄文人が持ち帰ったと考えるしかない。

 日本民族は縄文時代以前から長距離の外洋航海をしていたことが明らかになっている。琉球列島の島々からは2~3万年前の古人骨が多数出土している。その当時は最後の氷河期であり、その期間は海面が現在よりも100m以上も低くなっていたが、琉球列島はどことも陸続きにはなっていない。列島内には200㎞以上の海峡もあるが、それをものともせず往来していたのである。そしてその当時、外洋航海をしていた痕跡は日本民族にしか見つかっていない。縄文は外に開かれた時代でありながら、内に平和な理想郷をつくっていたのである。

都市は危機

縄文アイヌ研究会主宰 澤田健一 氏
縄文アイヌ研究会主宰
澤田 健一 氏

 それでなぜこのような社会が実現できたのだろうか。その重要なカギとなるのが都市化の問題である。都市化を考える前に「文明」と「文化」について簡単に触れる。

 縄文を文明だとする主張がなされている。国際政治学者の故サミュエル・ハンチントン教授なども、著書『文明の衝突』において、「日本は独立の文明をもつ唯一の国」と定義している。縄文時代のことを指しているわけではないが、都市のない時代の日本について「文明」と定義したことは非常に重要な指摘であると捉えるべきだろう。それほど古代時代の技術や文化レベルは高かったといえる。

 そうであっても、縄文は「文明」ではなく「文化」と定義される。その理由は「都市化」されていなかったことにある。答えを先にいうと、縄文人はあえて「都市化」を避けていた。集落の適正規模を保つためである。縄文社会は人口が増えると集落を分散させており、都市が誕生することがなかったのである。そのために時代とともに集落が増えたり減ったりしていて、1つの集落が肥大化することがなかった。今の定義で表現される「文明」ではなく「文化」社会の道を選択していたといえる。

 それは集落の意思決定の手段によるところが大きいのだと考える。後のエビスやアイヌの手法に残されているが、意見が割れたときは徹底的に話し合うのである。アイヌの談判はチャランケといい、当事者同士に話し合いをさせ、当事者で解決できないときはその集落の村の長同士が話し合って解決していた。エビスの社会も同様で、意見がまとまるまで2晩でも3晩でも話し続けた。多数決ではなかったのである。

 その片鱗が『日本書紀』から読み取れる。日本武尊が当時の蝦夷と呼ばれた人々を捕虜として熱田神宮に献上したところ、昼夜騒いで礼儀がみられなかった。たまらず三輪山のほとりに移されたがここでも静かにはならず、「蝦夷は、人並みでない心の者どもだ」と呆れ果てられ、西国の各地に分散して住まわされることになった。おそらく、「武器を奪って戦う」か「夜陰にまぎれて脱走する」か「大人しく朝廷に従う」のか、みなが口々に論じ合っていたのだろう。多数決社会ではなかったのである。

 現代社会では「最大多数の最大幸福」が正義とされる。国会議員の配分も一票の格差を配慮して地方の議席は減らされ大都市に集中していく。地方の人々は切り捨てられたと感じ、大都市に一極集中していく。はたしてこれが公正な社会の在り方なのだろうか。

 経済学者の代表的存在であるジョン・ケインズは、問題は「勝ち馬に乗りたがる大衆のねじれた欲望」にあると言っていた。その後も似たような指摘は数々されてきたと思う。だがその解決方法を問われても、答えを導く道筋が示されることはなかったのではないだろうか。そして、現在の社会問題を解決するおそらく最大のヒントが、1万年前の日本の縄文社会にあるのだといえそうである。

 数による最大多数の結論より、みなが認め合える結論を導く手法、一極集中の都市化ではなく、地方も生き生きとする社会、そうした現代版ユートピアが実現できないものかと願う。コロナ禍による怪我の功名で自宅や地方でも仕事ができる分野が増え、地方に移転する企業も現れ、地方について発信するユーチューバーが増え、外国人観光客は日本人の間でさえ知られていない地方にまで行き始めている。これらは一筋の光明であるとしても、答えはまだその先にありそうである。

 最後に岡本太郎の含蓄ある言葉を紹介して終わりとする。「人類は進歩なんかしていない。何が進歩だ。縄文文化のすごさを見ろ!」

(了)


<プロフィール>
澤田 健一
(さわだ・けんいち)
1964年、札幌市生まれ。同志社大学工学部卒。既存の枠にとらわれず、歴史・考古学を独自に学ぶ。思いつくまま読み・調べ・歩き・聞き・見ることを旨とし、文献やデータを忠実に読み解き、歴史の真実に迫ることを目指している。縄文アイヌ研究会主宰。著書に『縄文人の日本史』『夷の古代史』『古代文明と縄文人』『大和朝廷vs邪馬台国』(いずれも柏艪舎刊)。

[著書紹介]

縄文人の日本史縄文人からアイヌへ
夷の古代史邪馬台国そしてアイヌ(縄文とアイヌ)
古代文明と縄文人~世界に広がる日本の夷(えびす)~
大和朝廷vs邪馬台国 古代、二つのヤマトの戦い

(前)

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