市場縮小の罠を超える(3)山形屋の転落
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山形屋「私的整理」の衝撃
5月10日(金)、朝は寒し。昼にはだんだんと初夏の気配を感じる。この日、鹿児島の老舗百貨店「山形屋」が私的整理を申し出た情報(事実上の倒産)が駆け巡り、地元の鹿児島は上へ下への大騒動に発展していた。
さっそく地元の友人の谷山に電話した。「山形屋が倒産したぞ!」と報告すると、「嘘だろう! 昨日も買い物に行ったぞ」と狼狽する。それはそうだろう。なにしろ、山形屋(=創業家の岩元一族)は長いこと、地元住民にとっての「島津藩主」同様の存在であったのだから。
没落して見る影もないとはいえ、山形屋はそれほど内外から高い評価を受けてきた。かつては、家族の誰かが山形屋に就職できたならば、一族郎党あげての宴会を開くのが通例化していた。「娘が山形屋に就職できた!」と、鼻息が荒くなるご婦人方もいたものだ。ただ、ここ20年間、山形屋の業績は悪化の一途をたどっていた。つまりはなんらの打開策もないまま倒産に至ったのである。
冒頭の谷山はこう語る。「あまりに無策過ぎる。倒産のつけが回ってきたのは当然の報いだろう。3人の男友達が入社したが、1人は取締役で残っているものの、あとの2人は3年前に会社を見限って退社した。彼らからは散々、山形屋の悪口を聞かされたものだ。内情は誰よりも知っていたつもりだったが、まさか倒産までとは」。
名門企業今昔物語~鹿児島編
谷山は言うなれば地元経済の事情通である。その彼が、「平成期に林田交通が倒産したことを皮切りに、鹿児島老舗企業の淘汰が珍しくなくなった。岩崎観光グループといえども先行きは読めない」と、鹿児島経済の惨状を語る。だからこそ、その状況下でも気を吐く元気な企業の共通点を、「地盤沈下を続ける県経済に見切りをつけて、狭い鹿児島を抜け出して他地区での市場開拓に励んできたこと」(谷山談)と喝破するのだ。業容拡大する南国殖産や新日本科学(上場企業)は鹿児島を飛び出して国内全域に活路を求め、さらには海外にまで進出することで大躍進をはたしたのである。
ある一族~山形屋の傘の下で
原口家のことを紹介してみよう。原口家はまさに山形屋があってこそ生活が成り立っていた一族だった。父親は鹿児島では有名な設計士で、1930年に鹿児島市役所の設計も引き受けた実績がある。45年以降は、山形屋の取締役に就いていた。鹿児島市上荒田に社宅があり、そこに家族で住んでいた。娘の記憶によれば53年に、鹿児島市鴨池に父親の設計による自宅を建てたという。当時は社宅から出て自宅を建てることが一種のステータスとして流行っていたのだ。67年の9月に、筆者と友人は原口家の自宅離れにある2間を借りたが、失礼にも「築14年の割には古いな」と思った記憶がいまだ残っている(この友人はもうこの世にはいない)。
原口家では、まず長女が2年間山形屋にお世話になったあとに、東京へ出た。その後、妹が高校2年生の時(61年)に父親が61歳で急逝した。原口家の苦労の始まりである。妹は当時、九州大学を目指しており、それが叶わなければ鹿児島大学を受験するつもりでいた。しかし母親から、「兄と弟のために、(授業料稼ぎのために)就職してほしい」と泣きつかれたため、しかたなく山形屋に入社したのが63年のことである(当時、兄は中央大学1年生。弟は中学2年生だった)。
当時の就職先として、岩元家の君臨する山形屋は憧れの職場だった。「父親の信用があったから就職できた」と語る妹の同期は40人ほど。そのうちの半数以上は25歳までに結婚していた。大半が見合い結婚で、東京方面に嫁いだ人もいたようだ。男選びで失敗して転落した者もいる。
記憶をたどりつつここまで書いてみたが、さまざまな顔が浮かんでくるものだ。原口家では弟も学生時代に山形屋でアルバイトし、そこで人生の伴侶とめぐりあった。同家はまさしく山形屋あったからこそ生活を維持していけたのだ。妹は、「山形屋に入社できたことは私の人生の最大の誇りでした」と語り、友達から「おめでとう!羨ましいわ」と喜ばれたことを現在も鮮明に記憶している。
「あの山形屋が潰れるなんて信じられない。私の人生はお終いだ」という言葉こそ、地元に根を張った老舗名門企業と地域住民の結びつきの強さを象徴しているだろう(なお、文中の登場人物は全て仮名)。
【青木 義彦】
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