2024年12月23日( 月 )

日本文化とはどういう文化か?(前)

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福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

イメージ    現在の日本は、政治的に見ても、経済的に見ても、社会的に見ても、危機的状態にあると思われる。だが、もっと深刻なのは文化の危機である。政治情勢や経済状況と異なり、文化は永続性のあるもので、より根底的なものだ。これが崩れてしまうと、すべてが崩れる。

 戦後日本は文化を考えることをしてこなかった。戦勝国アメリカの圧力で政治はぎくしゃくしっぱなし。経済復興にエネルギーのすべてを注ぎ込んで何とか難を免れたのだが、文化を顧みることがなかった。「そんなゆとりはなかった」というのは一理ある。しかし、少し余裕ができたときにも、文化を考えることはしなかった。「背に腹は代えられない」では済まない。頭の90%が経済を考えているときでも、10%は文化に残しておかねばならない。それをしなかったのは、「自分」というものを大切にしてこなかった証拠だ。

 文化は精神の根幹である。これが崩れてしまえば、政治問題も経済問題も、いかなる問題も解決できなくなる。それなのに、政府には文化政策なるものがなく、政治と経済にばかり意を注いでいる。そこに大きな間違いがある。

 文化を考えるとき、社会と文化の関係を無視するわけにはいかない。社会の変化に応じて文化は変わる。では、社会を先に考えるべきかというと、そうではない。なぜなら、社会の変化は、世界経済の在り方や国際政治の状況にもろに影響を受けるが、文化にはそれが直接跳ね返ってくるとは限らず、時代の流れに逆らう傾向もないわけではないからだ。そこに、文化の意味がある。これを忘れてはならない。

 文化を、「音楽」「美術」「文学」などに直結させる人が多い。しかし、それらは「教養」であって、文化ではない。文化とは、いにしえの昔から現代に至るまで目に見えないかたちで続いてきているもののことであり、毎日の生活、否、私たちの身体にまでしみ付いているものだ。古来変わらない何かがあって、それが人々の価値観や生活感情を支えてきている場合、それを「文化」というのである。

 たとえば、日本語は日本文化に直結しており、これは古代から今まで本質的に変わっていない。無論、変わっている部分もあるが、変わっていない部分こそが重要なのである。その部分は日本人の日常生活に滲み込み、ものの見方に深く影響している。日本文化はそのような言語によって支えられてきたのだ。

 そのような日本語は、ネットやテレビのニュースで用いられている日本語とは異質のものだ。より基本的で、より身体的で、言ってみれば日本人の「無意識」にはたらきかける言語なのである。この言語の記憶、これが文化をつくる。

 今の日本人には、奈良時代の日本語はわからない。しかし、奈良時代の『古事記』の文章と、ローマ帝国の時代にラテン語で書かれたシーザーの戦記とを比べれば、どちらのほうが読みやすいかは誰にも明らかなはずだ。前者は読みにくくても、ぼんやりながら見当がつく。後者は皆目わからない。

 「文化は身体にまで滲み込んでいる」と述べたが、自然にそうなるわけではない。親から子へ、あるいは学校教員から生徒へ、また社会から個人へと伝達されて育つものだ。だから、家庭が崩れ、学校教育が機能せず、社会がぐちゃぐちゃになってしまえば、文化は消滅する。今の日本はそうなりつつあるように思われる。

 とはいえ、悲観的になっても意味はない。生きてゆくための知恵の1つとして文化が育まれてきた以上は、その文化の大もとを求め、そこから現状を振り返り、過去から何が得られるかを検討すべきなのである。仮にも何かを得られるならば、それは今日明日のために役に立つ。個人のためにも、社会のためにも、役に立つ。

 ところで、文化の危機は日本だけでなく、全世界的現象のようだ。現代世界の価値が「カネ」に集約され、それ以外が価値を失っているからだろう。かつては政治理念が信じられた時代もあったにちがいないが、その化けの皮も剥がれ、今はムキ出しの欲望が世界を動かしている。文明は地に堕ち、人類は暗闇のなかをさまよっている。

 「文化はカネでは買えない」とはよくいわれることで、カネは物質生活に必要なものではあっても、精神生活を豊かにするものではない。だが、にもかかわらず、世界のシステムは経済利益一辺倒であり、それを抑止する自浄作用ははたらいていない。つまり、システムとして機能していない。

 一体、何が原因なのか。強欲か?支配欲か?それとも、人類の自滅願望なのか?この問いを頭の片隅に置きつつ、私たちは自分たちの生活文化を立て直さねばならない。そのためにできることは、まずは自分たちの文化の特質を知ること。これを知らずして、なにも始まらない。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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