2024年12月23日( 月 )

日本文化とはどういう文化か?(中)

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福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

イメージ    日本文化は危機に瀕している。だが、このことを自覚している人は意外に少ない。それは、日本文化の特質を知らないからだ。今はこの本質から大きくずれている。だが、それに人々は気づいていない。

 思い切って言わせてもらえば、日本文化の本質は「文明の衣を着た原始の裸身」だと言ってよい。「原始の裸身」を捨てたら、日本人は日本人でなくなる。このことを忘れてはならない。

 「原始の裸身」などというと、「恥ずかしい」と思う人もいる。「日本は最先端をゆく文明国だ」と思っている人には、心外であろう。しかし、日本が世界の文明国と違うのは、その「原始性」を保っていることにある。このことは、しっかり認識しておくべきだ。

 西欧の国々でも、イギリスは古来の風習を守っている。その文化のもつ一種の「野蛮」さこそ、イギリスをイギリスたらしめている。広大な領地を所有する貴族がおり、彼らが国の政治と経済、とくに文化に影響を与えているような国が、本当に「近代国家なのか?」と疑うなかれ。「近代」しかないアメリカのほうが、イギリスより文明があるなどと誰にいえよう。

 イギリス人は自らの文化伝統を近代化のなかで何とか守ろうとしてきた。その努力を見事に描いたのが、テレビドラマ『ダウントン・アビー』である。これが世界的に人気を博したということは、現代人がアメリカ型の文明に満足していないことの証拠だろう。アメリカは「伝統」から自由であることを誇る国である。

 日本はハイテクな国であるにはちがいないが、その素顔はやはり「原始的」である。その「原始性」を端的に感じさせるものとして、「相撲」を挙げたい。これを格闘技と呼んでよいのかわからないというのも、儀式性が高いからだ。

 もともとは神への奉納であったわけだから、儀式性が高くて不思議はない。それが消費経済と結びついて大衆向けの見世物となり、いわゆる近代化が始まった。しかし、それでも最低限の儀式性は保っているのだ。

 力士がまわしひとつで闘うことに「原始性」が現れているのは事実だ。しかし、闘う力士が東と西の2つの陣営に分かれ、神聖な土俵に上がる際に一礼し、戦いに挑む前に土俵を浄める塩を撒くということにこそ、注目すべきである。この一連のしきたりは、人類学者のいう「未開社会」の文化構造に合致するものだ。相撲の「原始性」は、この構造に由来する。

 「未開社会」では部族が2つの陣営に分かれて並立し、両者は互いに交渉はするが、どちらかが他方より優勢にならないよう配慮するという。そのような配慮の残滓(ざんし)が相撲にも見つかり、しかもそれは日本文化全体を貫くものである。

 「未開社会」の原則は「来るものは拒まず」だという。ここでは、アメリカ先住民の伝説を例にとる。その伝説によると、あの部族が川辺で集団生活をしていると、そこへ別の部族がやってきて、「自分たちも川の水が必要だから、分けてほしい」と言ってきたという。そこで両部族の長が話し合いをもち、2つの部族が共存できるように工夫をしたというのである。その工夫とは、総人口が急増することで双方の部族の水の確保が難しくなることを避けるために、各部族から高齢者を追い出して、総人口の調整をするというものであったという。かくして、両部族は共存し、ともに川の水の恩恵にあずかることになったというのだ。

 人類学者のレヴィ=ストロースは、「西欧人なら一方の部族が他方をやつけるというかたちで問題解決をしただろう」という。そして、「高齢者を追い出すとはひどいことだ」と言い出しかねない西欧人の口を封じ、「一体、どちらがより人間的か?」と問う。日本人はこの点で西欧型か? それともアメリカ先住民型か?そこを読者に問いたい。 

 日本も戦争に次ぐ戦争の歴史であったから、一見して西欧型に見える。しかし、文化の根底を見ると、どうしても共存型なのだ。となると、日本文化は複合的で、力の論理を採用しつつ、自己否定の論理を根底に宿しているということになる。

 再びレヴィ=ストロースを引くが、彼は「未開社会の人々は、他人が悪いのではなく、自分が悪いと考える傾向があり、そこが西欧人と異なる」と言っている。日本人は問題が起こると、すぐ「すみません」と相手にあやまる傾向があるが、これは争いごとを避けようとするためだ。形式的な言辞であっても、無意味ではない。古来の自己否定の論理がそこに図らずも現れていると見たい。

 共存を求め、「来るものは拒まず」という発想を維持してきたことは、神道と仏教の両立にも、漢字と仮名の並立表記法にも、現れている。2024年と令和6年のどちらをとるか、という二者択一をしないところが日本文化なのである。この文化はそういう点で「原始的」な文化の持つ共存の思想を保持していることになる。日本文化の本質は、今こそはっきりと認識されなければならない。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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