2024年09月29日( 日 )

日本文化とはどういう文化か?(後)

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福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

イメージ    『日本の思想』を書いた丸山眞男は、日本文化を「雑居文化」と言った。似たような発言に、評論家・加藤周一の「雑種文化」がある。どちらも日本文化に雑多な要素があると認めているが、丸山のほうが実情を反映していると思える。

 加藤のいうことが正しいなら、神道と仏教の両立はあり得ず、この2つの宗教は混じり合って別種の宗教をつくり上げていたはずだ。そうなっていないのは、仏教と神道が、実際には混じり合っている部分もあるにせよ、同じ空間内に、それぞれ独自の風貌をもって同居してきたからだ。混淆(こんこう)するよりは、並存することを選んだと言ってよい。

 とはいえ、丸山も加藤も表層にのみ注目し、日本文化の根底にある構造には気づかなかった。表面的には「雑居」であっても、その同居の仕方に一定の構造があるところまで見なかったのだ。文化はシステムであり、システムである限りにおいて、そこに構造がある。これを捕まえなければ、その文化を理解したことにはならない。

 「未開社会」の構造は、世界を対立する二項に分け、その2つを並列させ、それによって全体の調和とバランスをとるものである。日本もこの構造にのっとって、神道と仏教の並立を実現し、2024年と令和6年を並列させ、どちらにも存在価値を認めている。文明世界ではあり得ないことで、文明社会は力のある者が相手を支配し、相手を呑み込むことで自らを膨らませる装置になっている。

 日本という国は、かつては「大和」だった。私たちは「日本」に馴らされ、「大和」を忘れ去っているが、もともと「日本」とは海外から見ての名称で、日本側からすれば「大和」だったのだ。日本人はこの両方の見方が正しいと判断し、そこで「日本」と「大和」という2つの国名を採用し、漢字と仮名文字のように、この2つを併置した。それが近代になって失われたこと自体、実は日本文化の危機を示しているのである。

 本来は「海外」と「国内」の両眼をもっていた。たとえ、そこでいう「海外」が「国内」人の想像上のものに過ぎなくとも、自分たちとは異なる見方をする人々が海の向こうにいるという判断があった。それが「近代」になると失われてゆく。これは危険なことであるにちがいない。

 つまり、本来の日本文化は「海外文明」と「土着文化」という二項をもっており、それに沿って仏教と神道を配置し、和漢あるいは和洋という区分を生んできた。この構造が「近代化」の下で崩されそうになっているのだ。

 近代化によって起こったことは、外界と内界、文明と土着の2つをつなげるものがなくなり、両者が2つの極となって、文化の分裂状況が生じたということである。この状況を抑止する装置を、日本はもっていないのだろうか。

 この装置として考えられるのが、「天皇」に代表される媒介者の存在である。現行の憲法では、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」とされているが、そこでの「統合」の意味が政治的なものなのか、あるいは文化的なのか、そこがはっきりしない。しかも、「象徴」には何らの能動性もないが、実際には一定の能動性が期待されるのである。

 能動性とは、雑居する文化的諸要素を配列し、それらを関連づけるとともに互いに距離を置くよう位置づける機能をはたす、という意味である。もちろんこれは理念上の話で、現実に天皇がそのように機能しているかは別問題である。しかし、システム的に文化を捉える限りにおいて、天皇はこのシステムの潤滑油であり、システム空間の提供者であるべきだ。

 ところで、天皇という存在は、その起源からして日本文化の本質を表す。「日本と大和」という二重性をもつこの二重性を具現しているのが天皇なのだ。というのも、天皇は地上に君臨する限りにおいて歴史的存在であるが、「天孫」であるという神話的存在でもある。この両方を兼ねるという矛盾を背負った存在、それが天皇なのだ。

 ところで、この矛盾は日本文化全体を貫く。日本は常に歴史と神話の両方にまたがり、何とかその命脈を保ってきたのである。無論、元寇やペリー来航などの大きなショックがあると、歴史と神話のあいだの揺れが激しくなり、バランスを崩す。明治以降の日本は、まさにこのバランスを失っている。しかし、これを回復しなくては、日本文化は存続できない。

 最後に、このような文化に「未来」はあるのか?という疑問が浮かぶ。現代世界は「あれか、これか」の二者択一の論理が幅を利かせ、神話を破壊することを進歩とみなす時代である。そのような時代、日本文化の並立・共存構造は生き残れるのか?

 生き残れれば、この文化は世界に寄与できるだろう。この文化には、現代世界の硬直した論理を和らげるものがあるからだ。しかし、それが実現するには、日本人自身が日本文化の本質をしっかり認識する必要がある。つまり、「己を知れ!」ということだ。

(了)


<プロフィール>
大嶋仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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