小説『ジョージ君、アメリカへ行く』(23)缶詰工場
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ジョージ君がアメリカにきてから、1年半近くの歳月が流れていた。中学生のころから10年以上、英語を勉強する機会があったにもかかわらず、英語ができなかった人間は、結局アメリカにきてもそう大きくは変わらなかった。
もっと滞米期間を長くしないといけない。短大を卒業した程度の英語力では、役に立たない。4年制大学に行かざるを得ない。しかし、そのためには授業料を稼がないといけない。
ジョージ君は留学の先輩たちがたどってきた道をいろいろと聞いてまわった。すると、夏の間に缶詰工場で働くのが、一番お金が貯まる方法だということがわかった。うまくやれば、ひと夏で3,500ドル~4,000ドル前後は稼げるそうだ。当時のレート、1ドル=300円計算で、100万円以上にもなる。
しかし、この10年ほど、缶詰工場で働いた日本人留学生はいなかった。永住権の問題や、失業率の高まり、メキシコ人の大量移入などが原因だ。とにかく、1960~1970年代前半の、アメリカの一番いい時代は終わりつつあった。
製造業はとくにむずかしくなっていた。ジョージ君の住んでいるストックトン・サクラメント・フレズノ地区は世界一の農業地帯であった。夏になると、トマト、梨、桃、オレンジなど、たくさんの野菜やフルーツがつくられていた。それらの生産が過剰なときは、缶詰やケチャップにされた。よって、町の周辺には、たくさんの缶詰工場があった。とくに、桃と梨の缶詰工場と、ケチャップ工場が多かった。
缶詰工場をもっている大きな日系の農家もあった。ジョージ君が後年、数回デートをした、大原麗子そっくりのお嬢様、デビー・OHRAは、日系缶詰工場主の娘だった。当時、彼女のことは知らなかったが…。
ジョージ君はまず、飛び込みでカリフォルニア・カンナリー(缶詰工場)に行ったが、「現在は直接、工場で雇っていません。職安で受け付けています」と言われた。あきらめて、次はケチャップで有名なデルモンテの工場に行った。そこでも、また同じことを言われた。「会社が直接、採用をすると、コネで人が雇われてしまうので、不公平が生じる。働きたいのなら、職安に行きなさい」。しかし、職安に行こうにも、問題があった。職安に行けば、永住権の提出を求められてしまうのだ。
最初はあきらめようと思った。しかし、それでは4年制大学にいけない。不思議なことに、当時のジョージ君には、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコというような大都市に出て、日系企業で就職活動をしようという発想はまったくなかった。田舎の限られた情報のなかで生きていたのだ。学生を続けるには、缶詰工場で働き、授業料を貯める。その方法しか考えられなかった。
とりあえず職安に行ってみよう。職安に行くと、数キロにわたって、職を求める人たちが並んでいた。メキシコ人が中心だった。一緒にきていた誠君は恐れをなし、「ジョージさん無理だよ。はじめから言っただろう。あきらめて帰ろう」。
彼は医者の息子で、まだ20歳。ジョージ君は日本でサラリーマンを辞めてきた、27歳。選択肢はもう、誠君ほど多くない。「誠君、待ってくれ、ここで引き下がっては男がすたる。誰が採用官か、とりあえず見てくる。一番先頭まで見に行こう」。歩いている間に、いろいろな情報が入ってきた。採用される季節労働者は合計800名だが、今すでに2,000名近い人が並んでいるらしい。もう絶望的である。まして、永住権もない身だ。
一番先頭に立っている採用官が見えた。ちょび髭を生やした、中国人か、日系人に見える人だった。当時、韓国系はほとんどゼロだった。人相からすれば日系人に見えた。ジョージ君には、かすかな違いがわかった。
近くにいた職安の女性に聞いた。「彼の名前は?」。 「フレッド・長島よ」(仮名)。よし、日系人だ。直訴するしかない。ランチタイムを待った。さすが公務員、何1,000名並んでいようと、12時ちょうどに昼食に行くようだ。
彼が建物から出てきたところを見はからって、言った。「Hi. How are you, Sir? I am an exchange student from Japan, and I need your help. I need this job, otherwise, I will have to go back to Japan」(こんにちは。私は日本からの留学生で、あなたの助けが必要なのです。この仕事ももらえないと、私は日本に帰らなければいけないのです)
彼はしばらく、ジョージ君の顔を見つめていた。そして静かに言った。「申込書はもってきたのか?」。 「はい、もってきています」。「それを渡しなさい。ランチが終わったら、最初に君の名前が呼ばれるようにしておこう。君の書類を一番上に置いておくから、このあたりで待っていなさい」
フレッド・長島が帰ってくるまでの1時間は非常に長く感じた。ランチ後、ジョージ君は予定通り、一番に呼ばれた。面接はいたって普通で、永住権のことも聞かれなかった。もちろん、彼が意識的にその質問を避けたのだ。
助かった、仕事が手に入った。誠君が言った。「さすが、ジョージさんだ。やるね。でもルール違反だよ」。ジョージ君はそれに返答はしなかった。お坊ちゃまの誠君に説明してもわからないだろう。「生きていくことにはルールはない」と思えた。とにかく一生懸命働くことで恩を返すしかないと思っていた。
ジョージ君は、缶詰工場で一生懸命働いた。カリフォルニアの農村地帯での、日本人の「勤勉・正直」は伝説的であった。それをジョージ君の世代で崩したくなかった。わずか3カ月だったが、その働きぶりに現場監督は感動した。
彼の命令・依頼にはすべて「Yes, Sir.」と答える。忍耐力のないジョージ君でも、3カ月程度なら頑張れる根性があった。滅私奉公すると、白人は必ずジョージ君を信用した。
「滅私奉公」などという大時代的な言葉は、大嫌いであった。それなら「誠心誠意」という言葉が適切かといえば、そうでもない。外国で信頼を得るには、相手の懐に飛び込み、自分を殺し、相手のことを最優先に考える。そうして初めて、相手の心をわしづかみにできるということを、ジョージ君は、これまでのアメリカ生活で学んでいた。
日本にいたら、こんな短期間ではとても学べなかったことだ。権利ばかりを先に主張する人間は、アメリカでも実は嫌われていたのである。ジョージ君はホームステイをしていたので、それを自然に学んでいたのだ。
愛でも、好意でも、金でも、先にあげることだと信じるようになっていた。それをすれば、彼らは必ずわかってくれる。 日本のようにお世話になった後に、義理を返すのではなく、Give and Take、先にあげ、その後、返してもらうのである。これがキリスト教の精神である。ホストマザーのベティーは、「日本人は借りを返すから好きだ、信用できる」と言っていた。
その義理の精神をジョージ君は無理して、英訳をしようとした。辞書にはDuty とか、Obligationと書いてある。似たような行為ではあるが、先に与えて、あとで返してもらうのとは、多少の違いがある。いずれも東西の尊い価値観であるが、日本は受動的、アメリカは能動的であった。
さて、缶詰工場の現場監督のフォアマンは、ジョージ君を非常に気に入ってくれた。何度も家に誘われた。娘を紹介するというのである。彼の容姿から想像すると、娘は美人に間違いなかった。そして案の上、実際会ってみると、ものすごい美人であった。
ところがそのとき、彼女にはすでにボーイフレンドがいた。フォアマンはそのボーイフレンドが気にくわなかったようだ。これだけは父親の思うようにはならないようである。
もう1つ提案があった。「君がこのまま働いてくれれば、社長に頼んで、永住権の保証人になってやる」というのだ。ありがたい話である。なにしろ、工場の賃金は時給で8ドル75セント、残業や土曜出勤をすると、自給は50%増しで13ドルあまり、さらに1週間休みなしで、日曜日まで働くと、100%増しの時給17ドル50セントにもなる。これなら7年もあれば、家を買うのに十分な貯金ができ、結婚して家族を養うこともできる。広い庭のある、3ベッドルームの家が買えるのだ。
ジョージ君は監督の永住権スポンサーの件を真面目に考えた。なぜ、英語を学びたいのか?なぜ、アメリカにきたのか?このあたりでもう一度、熟慮する必要があった。ジョージ君は、アメリカ人になって豊かな暮らしがしたいわけではなかった。なにか日本と関わりのある仕事がしたかった。日本の役に立つ仕事がしたかったのである。
結局、缶詰工場で働く話は丁寧に断った。「俺は4年制大学に行きたいのです」。あの時なぜ、「大学院に行って、MBA・経営学修士をとりたい」といえなかったのか?当時のジョージ君には、その程度の貧弱な発想しかできなかった。授業料を自分で稼ぎながら、大学に行くという生活のなかでは、将来を深く考える余裕はなかった。
(つづく)
【浅野秀二】
<プロフィール>
浅野秀二(あさの・しゅうじ)
立命館大学卒業。千代田生命保険相互会社(現・ジブラルタ生命保険株式会社)、JACエンタープライズ(米サンフランシスコ)で勤務。関連キーワード
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