2024年08月14日( 水 )

お盆にお墓と向き合う~家族、生き方、お墓が変わる(前)家墓って何?

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 今年もまたお盆の季節がやってきた。お墓を訪れるのは1年でこのときばかりという人も少なくないだろう。しかし、お墓の問題はいずれ誰もが何らかの形で直面しなくてはならない問題だ。お盆はお墓のことについて改めて考える良い機会である。
 昨年9月にお墓について連載した記事を改編して再掲する。

家族が変わる、お墓が変わる

 かつては「田舎の夏」がどこにでもあった。あるいは、日本人に共通のイメージとして思い描かれてきた。夏はお盆の季節であり、お盆には田舎に帰る。そこにはおじいちゃんやおばあちゃんがいて、お墓があり、ご先祖さんの魂がいる。「田舎がある」とはそういう場所があるという意味であり、「田舎に帰る」とはそうした「帰る場所がある」という意味であった。

 しかし、少子化や非婚の増加、グローバリズムの進展など、家族や暮らし、住む場所の多様化・流動化によって、家族のかたちが大きく揺らいでいる。そこへ突然襲いかかったコロナ禍を契機に、これまでかろうじてつなぎ止められていた田舎のお墓との接点が、ついに失われてしまったという人も少なくないだろう。そのあとに訪れるのは、墓守の負担から解き放たれた安堵であるか、あるいは「先祖代々の墓」を守ることができない申し訳なさか。同時に、自分たちの墓を自ら探さねばならないという、現実的な課題も待ち受けているだろう。

現代の家墓の成立

 失われゆく「〇〇家之墓」や「〇〇家先祖代々之墓」といった家墓は、実はそこに祀られているはずのご先祖様ほどに、歴史は古くない。

戸時代から現代までさまざまなお墓が混在する墓地
江戸時代から現代まで
さまざまなお墓が混在する墓地

    江戸時代、墓が出現するのはおよそ元禄年間(1688~1704年)からである。ただし、墓をもつのは武家や豪商や庄屋などに限られており、庶民はお墓などというものはもたなかった。死んだらせいぜい埋葬された場所に土饅頭がつくられる程度で、墓標らしきものもほとんどなかったと見られる。地域によっても違いがあるだろうが、庶民の墓が見られるようになるのは江戸後期の文化年間1804年頃からだ。

 当時は基本的に土葬であり、墓の形式としては、1人が祀られる個人墓か夫婦墓が多い。前者には、1体を土葬したその上に、その人物を祀る墓を築くタイプと、埋葬した所ではない別の場所にその人物を供養するための墓標(詣り墓)を立てるタイプがある。夫婦墓は、1体を埋葬したその上に墓を築き、そこに別の場所に埋葬された配偶者を合祀したものだ。夫婦墓にその子らや孫など親密な人の名を背面に刻んで合祀した墓なども見られる。

 現代の標準である「〇〇家之墓」といった家墓が確立したのは近代以降である。背景には、明治政府が旧民法で規定した家父長制と家督制度がある。家を単位として、家長である長男の絶対的な権限と相続権を認めるものだ。明治憲法において皇統という観念が天皇家の正当性の根拠として持ち出されたように、ご先祖様も家父長制の観念的な根拠となり、近代の権威主義的な中央集権構造を国民の末端まで浸透させる機能をはたした。

 そのほかにも家墓の成立を後押しした現実的な事情として、江戸時代まで一般的ではなかった火葬を政府が推奨したことや、都市化による人口増加と墓所用地不足なども挙げられる。とくに東京では、関東大震災による寺院内墓所の整理が、火葬して一家で1つのお墓に入るという形式を急速に普及させた。そして、戦後高度経済成長期の人口移動と新しいお墓の需要増加によって、画一的な家墓が全国的に広まったと考えられる。つまり、庶民が家墓をもち始めたのは、せいぜいここ100年程度のことなのである。

寺院墓地の変化

 だが、近代以降の伝統となった家墓は現在、抗いがたい浮世の変化に晒されている。ここで寺院墓地について触れよう。

 江戸時代、キリシタン対策のために寺請制度が導入され、現代の戸籍にあたる宗門人別帳が作成されるなど、寺院は民衆管理の基盤となった。同時に、檀家は檀那寺をお布施で経済的に支え、寺の方は檀家の墓所を管理する、という関係が確立した。

 現在、地方を襲っている人口減少は檀家の減少を招き、寺院の経営を圧迫している。一方で、多死社会は都市にも地方にもあまねく広がっている。身寄りがなく、経済的な余裕もなく、死後の寄る辺となる墓所をもとめる人は後を絶たない。家墓を承継する人は地方の寺院から消えていく一方だが、お墓をもたない人を納骨堂や合祀墓のようなかたちで受け入れる場所として、地方の寺院の重要性は増している。

 本来、寺院には宗派があるが、現在はインターネット上でお墓の売買を仲介する業者と提携し、宗派などにかかわらず納骨者を広く受け入れる寺院が増えている。そこで販売されている多くのお墓の形式は、従来型の家墓ではなく、樹木葬のような墓仕舞いまでがセットになった形式だ。将来の墓守の負担も追加費用も不要なセットは、購入者ばかりにメリットがあるのではない。墓仕舞いがセットになったお墓は、13回忌や33回忌で墓標が整理された後、その区画を次の人に販売することができる。また、家墓のように承継者がいなくなって放置された墓の処理に困らなくて済む。家墓の承継が難しくなりつつあるこの時代、墓地経営者にとっても好ましいお墓の形式なのである。

寺院内墓地に作られた樹木葬の墓
寺院内墓地に作られた樹木葬の墓

 つまり、寺院にとって家墓の問題は、檀家が減りお布施の収入が減ることばかりではないのだ。将来的に承継者がいなくなるかもしれない家墓の存在それ自体が、寺院関係者にとっては悩ましい問題となっているのである。とある古刹の寺院関係者は次のように語る。

「うちの墓地では、もう何年も前から新しいお墓の建立はお断りしています。新しいお墓を建立されても、いずれお墓の承継者と連絡が取れなくなる可能性がある。そうなると、お墓の処理が寺院にとって負担になるからです。ですから、もうだいぶ前から当寺院では、檀家であるかどうかにかかわらず、納骨堂と位牌堂での受け入れしか行っていません。」

 この寺院の墓地は、戦後、墓地を整理して区画を売り出すことを、そもそもあまり行っていなかったのであろう。住宅地の間に所在しながら、江戸時代からの土葬墓のままと思われる墓が多く見られた。今となっては、費用をかけて区画整理を行い、家墓を新たに受け入れても、檀家としてお布施を期待することは見合わない時代になったのである。

 墓地の隅には無縁仏あるいは無縁墓となった遺骨のための納骨堂がつくられていた。その横には、納骨されている家名が記された銘板が並べられている。真新しい銘板が多いことが見てとれた。

 一方、かつて墓所が整理されたお寺などでは、墓地の隅などに古い墓標が一か所に集められているが、そうして「寄せ墓」されたなかに「有縁 無縁 三界万霊塔」などと彫られた碑がある光景を目にする。

三界万霊塔の周りに集められた舟形地蔵の墓標
三界万霊塔の周りに集められた舟形地蔵の墓標

 「三界万霊」とは元来、あらゆる有縁無縁の衆生を供養することを意味する言葉である。碑ばかりでなく位牌などにも彫られ、家庭内でも家族や先祖などとともに祀られていた。こんにちでは家庭でも位牌を祀らなくなり、その意味も分からなくなりつつある。

 しかし、形は変わっても故人を弔いたいという人の心は存在し続ける。新しい時代に合ったお墓や弔いのかたちが、これからますますビジネスや人の活動によってつくられていくだろう。

(つづく)

【寺村朋輝】

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