2024年12月22日( 日 )

30周年を迎え、また超えて(10)情報クレーム対応

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情報の渦中にて

 「情報マンの最高の醍醐味」は、情報の渦中で「ドラマの主人公」になれることである。情報は、たまに「ポテンヒット」のように飛び込んでくるものではない。ツキが続く時には連日、ビッグニュースをキャッチすることもある。情報部隊を組織していれば、5案件を同時に追うことが可能である。10月2日、スクープ記事になりそうな情報を知人・佐賀氏(仮名)からもらった。この人物は、このシリーズの主人公である。

 その情報とは、ある商社が出資している会社の九州の「代理店A」が粉飾決算をしているため、税理士法人から決算作業を断られたというものである。試算表から判断すれば97%債務超過になってしまう。試算表のなかに借入金4億円強を提供している不動産業者の名前が記載されていた。「これは面白い展開になってきたな」と気分が高揚してきた。この不動産業者は最近、連絡が取れずに懸念されていたのだった。毎日のように、こうした「企業ドラマ」に巻き込まれていくのである。

弱腰のクレーム処理では負ける

イメージ    自慢ではないが、自身の記事に対するクレームが発生し、それが裁判にまでエスカレートしたことがない。なぜかというと取材先の当事者に正面から応対して取材を積み重ねてきたからである。言いたいことはすべて吐き出させて記事にまとめた。確証のもてない話は一切、掲載しないように徹していた。だから自分の発信した記事が裁判になった記憶はない。だが、部下の記事を徹底的にチェックしなかったツケを払わされたことはある。

 クレーム処理が必要となったトラブル2件は1988(昭和63)年に起きた。1件目の教訓は、クレームに対して弱腰で対応すると必ず負けるということである。情報部記者の記事へのクレームの件だ。この件ではいろいろと複雑な要素が絡んでいた。部下の情報部記者は不渡りの担当者だった。同記者の交際相手が、宮崎県出身(筆者の出身地の隣町)であったことから、われわれ夫婦は両名の結婚の際に仲人役を買ってでた。この記者は順調に伸びていけば、情報マンとして非常に期待できるだけの器量を備えるようになっていたはずだ。

 問題になったのは、東経速報に不渡りを出した企業についての記事を2回書いたことである。編集の方でしっかりとチェックしておけば、ここまでこじれることはなかったのだが、「どうして2回も同じ会社の不渡り記事を書いたのか?」とクレームをつけられたのだ。交渉役が筆者ならば、「あなたの抗議に対して、こちらには何ら落ち度はない」と追い返していた。「こちらに誤りはない」との自信があったからである。ところが相手が悪かった。クレームをつけてきた人間は、かつて東京経済に勤めていたOBだったのである。「札付き情報屋」と呼ばれていたらしい。

 この交渉役となったのが当時の支社長であった。これまで2度登場した筆者が尊敬する宮本支社長は、すでに故人になっていた。彼が存命であれば、まずこじれることはなかったはずだ。「タカリ屋OB」が支社長にアプローチしてきたのは、「与しやすい」と考えたからである。今振り返れば、この支社長は同僚時代から、「タカリ屋OB」に舐められていたのであろう。2回目の交渉に筆者も立ち会ったのだが、「あれぇ、これでは戦いにならない」と即座に思った。

 タカリ屋OB=ゴロ屋は「同じ会社の不渡りを2回も書くとは、どういうことか!どれだけ迷惑を被ったと思っているのか?」と高圧的な態度をとってきた。「いやぁ、ごもっともです」と支社長は恐縮し、低姿勢だった。筆者は「これは勝負あった」と観念した。そこで筆者が「ところで先輩!一体、慰謝料として、いくら金額を積めば済むのですか?」と提示したことで、攻守逆転、主導権を握ることとなった。ゴロ屋は「200万円でどうか」とブツブツ呟いていた。

 「支社長!100万円で手を打ちましょうや!あなたと私で50万円ずつ折半して負担しましょうや!」と言うと「それで話をつけてくれ」という返事があった。「先輩!みられた通りです。100万円が限度。これ以上は無理ですから、納得できないなら裁判でもしてください」とゴロ屋に最後の通告をした。ゴロ屋は3分ほど考え、「わかった!明日払えよ」ということで、手打ちとなった。読者もお察しの通り、このお金はすべてゴロ屋の懐に入ったのである。

クレームで一睡もできず

 情報マン、調査マンとして50年過ごしてきて、クレームで一睡もできなかったこと(徹夜)が2回ある。その相手は佐賀氏だ。しかし、そのトラブルの原因が明確ではなかった。2日、佐賀氏と昼食をとった際、「あのとき、何で俺を攻めていたのかね?」と尋ねたが、本人もはっきり覚えていないのである。確かに88(昭和63)年某日の夜は一睡もできなかった。「反撃できる方策はまったくない」とお手上げ状態で一夜を過ごし、会社に午前6時半に出社した。

 佐賀氏からは「9時にうかがう」との申し出があった。ところが時間厳守のはずのこの男が午前9時、9時半になっても姿を現さない。9時50分のことであった。朝日新聞の若手記者から電話があった。「佐賀という男を知っているかい?」という問い合わせの電話である。「いやぁ、9時に会うことになっているのだが、まだ現れない」と答えるしかなかった。すると、この記者は「佐賀は県警に逮捕されている」と驚くべき情報を耳打ちしてくれた。これが「香港上海銀行福岡支店疑獄事件」の始まりであった。結論から言えば、この銀行の福岡進出は10年早かったのである。

(つづく)

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