うきはテロワールと悠久の古代史(4)
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前うきは市長 髙木典雄 氏
4. 悠久の古代史
~悠久の古から続く「うきは」での人々の営み~うきは市は、うきはテロワールで分かるように、大変起伏に富んだ地形にあり、豊かな自然に恵まれ、さまざまな地理的環境を有しております。肥沃な土地ゆえに人々が集まった「うきは」には、太古より多くの民が生活し、生業としての農業があったことがうかがえます。
また、「うきは」は、博多湾から朝倉を通り大分に抜ける街道、有明海からそして博多湾から筑後川を上り日田に至る航路の交わる位置にあり、博多・太宰府の奥の院に位置しています。さらに八女・菊池からうきは・日田を通り響灘・瀬戸内海に抜ける街道、航路など、地勢上重要な場所にある「うきは」には、たくさんの歴史的な史跡が残っており、そこには太古から栄え続けてきた理由があるのではないかと考えました。そこで、「うきは」の歴史を改めて調査・整理したところ、権力者の地、交通の要所、農業の盛んな地として栄え、太古より多くの民が暮らし続けてきたことが分かってきました。その概要について皆さんにご紹介させていただきます。
(1) 古代の「うきは」
旧石器時代の遺構としては、浮羽町の新川遺跡で集中して確認されており、筑後川流域では唯一の遺跡となっています。また、吉井町の古畑、若宮、宮田、浮羽町の大野原、山北の扇状地および巨瀬川沿いの浮羽町の尼ケ瀬開拓地などからは、縄文時代の遺物が数多く見つかっており、早期に属する曽畑(そばた)式土器も出土しています。近年では、平坦地において縄文時代の遺跡が多く確認されるようになっており、とくに、浮羽町の柳瀬遺跡では、孔列文土器が出土して朝鮮半島とのつながりを示すものとして非常に注目されているところです。このころから「うきは」は、人々の居住に適していた土地だったと考えられます。
弥生時代には、稲作文化が中国大陸から伝わり、人々は生活共同体をつくって生産にあたるようになります。集落をまとめていく中心的な人物も出てくるようになり、集団は次第に拡大されて小国家的存在となり、さらに小国家間では争い、奪い合いが繰り返されるようになります。浮羽町の日永遺跡においては、銅戈と銅矛が一緒に出土した全国的に見ても貴重な青銅器埋納遺構が検出されており、弥生時代においても重要な土地であったことがうかがえます。中山間地では、浮羽町の妹川谷等の縄文、弥生時代の遺跡から、雨水を堤に蓄えることにより、陸稲や水稲、その他の穀物の栽培が行われてきたことを知ることができます。また、巨瀬川、隈上川がつくる三角州の台地の近傍にも堤が見られ、堤は古代より人々の生活の一部として水田耕作に利用されたものと考えられます。
古墳時代になると、地方を治める権力者やその一族などの支配者的豪族と一般の人々の間に身分上の階級が生じてきます。「うきは」では数千におよぶ古墳がつくられていたそうですが、残念ながら現在ではほとんどが壊されているものの、百基以上は現存しています。そのなかには国が指定している全国の装飾古墳の実に一割にあたる7基が保存され、なかでも近畿地方とのつながりを強くうかがわせる副葬品が出土した、吉井町の月岡古墳をはじめとする若宮古墳群や壁画に中国の思想が示されている装飾のある、吉井町の屋形古墳群などがあり、これらから「うきは」に住む人々がほかの場所の人々と交流し、異なる文化や思想を取り入れ、その地独自に深めていったものと考えられます。数々の装飾古墳の存在は、「うきは」が古代における歴史の舞台であり、遺跡の宝庫でもあったことを如実に示しています。
(つづく)
<プロフィール>
髙木典雄(たかき・のりお)
1951年8月、福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)出身。74年、福岡大学商学部2部を卒業。70年に建設省九州地方建設局(現・国土交通省九州地方整備局)に入省。94年から98年まで、建設省九州地方建設局から浮羽町助役に出向。その後、福岡国道事務所副所長や九州地方整備局調査官、九州地方整備局総括調整官などを歴任後、2012年3月に国土交通省を退職。12年7月にうきは市長に初当選し3期務めた。関連記事
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