2024年11月21日( 木 )

うきはテロワールと悠久の古代史(5)

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前うきは市長 髙木典雄 氏

(2)    古文書からみる「うきは」

うきはの葡萄畑 イメージ    「うきは」の地は最も古くから文献(古事記、日本書紀、風土記等)にたびたび登場し、その場所が特定できる特異な地であります。的邑(いくはむら)、以久波(いくは)、宇枳波(うきは)、生葉(いくは)、浮羽(うきは)といろいろな漢字で出てくるのがすべて「うきは」の地です。日本書紀には、第12代景行天皇の九州大遠行の終着点となる「浮羽島」が記されています。景行天皇が「うきは」の地に初めて足跡を残し、「生葉の行宮」を置いたことの意味は極めて重要であります。また、日本書紀には、「うきは」を拠点とする的氏(いくはし)と、第16代仁徳天皇をはじめ朝廷とのつながりが記されているところです。

 第37代斉明天皇は百済支援に応じ、王族や豪族を率い、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷られ、百済復興の戦に備えました。吉井町の橘田(たちばんだ)にある竈門神社の縁起書によると、天智天皇が朝倉の木の丸殿から見渡したとき、「橘の広庭」と言ったことにより、「橘田」の地名になったといわれています。筑後川の中流域に位置する「うきは」は、博多湾や有明海に通じる場所で、両海域から敵に攻め込まれても、陸路で豊前を経て、瀬戸内海を通って大和へ逃走することができます。「筑後国風土記」の逸文に、倭軍に攻められた磐井が豊前に逃げたというくだりがあり、磐井の乱の鎮圧軍は、博多湾から筑後へと迫ったことから、磐井は筑後川付近を上って、豊前へ向かおうとしていたものと思われます。このことからも「うきは」の地が地勢的にも重要な交通の要所であったことがうかがえます。

 全国的にひかれた条里制の地割を主に耳納山麓一帯に確認することができ、農民に対し租庸調等の賦課制度を導入する基礎づくりを行う様子が想像できます。

 679年の筑紫大地震の痕跡にも、市内発掘調査において地割や砂脈などが確認されたところです。大化の改新から始まった律令国家の土地国有制のなかにできた私有地を指す荘園は、うきは市内でも確認され、地震で被害を被ったにも関わらず、人々はこの地に住み続けたことが推測されます。また、平城宮出土の木簡に、生葉郡煮塩年魚伍斗を貢納したと記載されています。この地の人々が朝廷などと交流していたことは明らかなところです。

 743年に墾田永年私財法が出され、新しく開墾した田はすべてに永久にその私有が認められました。人々は開墾をし、新たな場所をつくり上げていきます。吉井町福富(ふくどみ)校区の「福富」の名前は、開墾地を「福富荘」と呼んでいたことに由来するという考えもあり、人々がこの地で作物を収穫し、富を得ていたことをうかがい知ることができます。

 平安時代中期に作成された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には生葉郡(いくはこおり)の郷名として、椿子(つばこ)・小家(おえ)・大石・山北・姫沼(ひめはる)(治)・物部(ものべ)・高西(こせ)の七郷の記載があり、早くから広範囲に開墾されていたことを意味します。このことからもこの地区には多くの農民がおり、作物を栽培していたことを示しています。

(3)    中世、近世へ 時代とともに変化する「うきは」

 中世に入ると、「うきは」では南朝方である星野氏と、北朝方である問注所氏の2人の豪族による支配が主なものとなり、41カ所もあったともいわれる山城や出城が中世後半に築かれたと考えられます。平常時は農作業を行い、攻防戦が始まると山城などに籠り戦うという形態であったものと思われます。見晴らしの良い耳納連山の山間に多くの山城・出城が築かれ、その麓や平野部には居館や平城が築城されていきます。吉井町の屋部には「血留池」という名称の池があり、言い伝えによると、中世の争いのときに多くの人が切りつけ合い、上流から血が川伝いに流れついたところが血留池だといいます。このことから、多くの人が争いにより亡くなったこと、またその当時より以前から先程述べましたように人工的に堤、つまり溜池をつくっていたことがうかがえます。人々は山の水を溜池により貯水し、田畑に利用していたのだろうと思われます。現在ではうきは市内に141カ所の溜池を確認することができます。

 江戸時代になると、藩政の元に農地の拡大や街道の発展が図られ、吉井の町並みができるなど、現在のうきは市の景観の原型が形成されたと考えられます。とくに江戸初期に開削された、大石長野用水や袋野用水は、地域の発展に大きく貢献し、肥沃な一大穀倉地帯に生まれ変わり、商品作物の栽培加工が盛んになっていきます。蝋燭・酒・麺・精油などの製造で財を成した、「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる豪商たちも輩出されます。

 また、筑後国の生葉郡、竹野郡、山本郡は「筑後国上三郡」と呼ばれており、明治・大正時代には「上郡米」の名称で、吉井町の高橋を流れる巨瀬川で舟積みされ筑後川を経て、大川の若津港から、長崎、大阪、東京などに出荷されていました。まさに、ブランド米、産地のブランド名のはしりだったのではないかと思われます。

(つづく)


<プロフィール>
髙木典雄
(たかき・のりお)
1951年8月、福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)出身。74年、福岡大学商学部2部を卒業。70年に建設省九州地方建設局(現・国土交通省九州地方整備局)に入省。94年から98年まで、建設省九州地方建設局から浮羽町助役に出向。その後、福岡国道事務所副所長や九州地方整備局調査官、九州地方整備局総括調整官などを歴任後、2012年3月に国土交通省を退職。12年7月にうきは市長に初当選し3期務めた。

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