うきはテロワールと悠久の古代史(6)
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前うきは市長 髙木典雄 氏
(4) うきは市の人口変遷
うきは市は、2005(平成17)年3月に旧浮羽町、旧吉井町が合併して誕生しました。合併時3万4,101人いた人口も、24(令和6)年4月1日現在、2万7,638人に減少し続けています。
ここで、合併以前のこれまでの人口規模について、推計も含めながら日本の全体人口と対比しながら見ていきたいと思います。現在のうきは市域において人口が一番多かったのは、1950(昭和25)年の4万3,085人で、日本の全体人口が8,320万人ですから、うきは市域の比率が約0.05%となります。市制・町村制が施行された1889(明治22)年のうきは市域の人口は、2万7,156人で、日本の全体人口が、3,900万人ですから、うきは市域の比率が約0.06%となります。江戸中期のうきは市域の人口は、1万7,000人で、日本の全体人口が、3,000万人ですから、うきは市域の比率が約0.06%となります。奈良時代のうきは市域の人口は、9,600人で、日本の全体人口が600万人ですから、うきは市域の比率が、約0.16%となります。
こうしてみていくと、時代を遡るほど「うきは」の人口比率が高くなっていることが分かります。とくに古代の奈良時代においては、日本全体の約0.16%もの民がいたことになります。2024(令和6)年4月1日時点の日本の全体人口が概算値で1億2,400万人ですから、うきは市の人口2万7,638人の比率は、約0.02%となり、なんと約8倍にもなります。
このことからも「うきは」には、古くからたくさんの人々が住んでいたことが分かると思います。
以上のことからも、「うきは」の数々の歴史遺産は、多くの民がいた証であり、「うきは」の民を支えた肥沃な大地があるからであります。
うきは市は、豊かな地理的環境に恵まれ、人々の営みが古来より現代まで絶えることなく続き、農村社会が形成され、歴史と文化をつくってきた理想郷であるといえます。
イギリスの歴史家E・H・カーは、『歴史とは何か』のなかで、「歴史は、現在と過去の対話である。(中略)過去を見る眼が新しくならない限り、現代の新しさは本当に掴めない。」と言っています。地方創生が求められるなか、地域の歴史・文化を紐解くことが、今こそ求められているのではないでしょうか。
5. まとめ
「うきはテロワールと悠久の古代史」と称して、皆さまにご紹介させていただきました。今後のまちづくりを進めるにあたっては、これまで気づかなかったうきは市の素晴らしさを実感し、新しい価値観をもって、日々の生活を送ることができる社会を形成することが重要だと考えます。
かつての日本の原風景が残る、うきは市の新しい価値観は、うきは市の日常のなかに存在していると思います。恵まれた自然環境を舞台に縄文、弥生、古墳時代から古代文化が開花し、農村社会が形成され、良質な土壌や地勢・気候などに育まれ、人々が生活し、そして現在に至ったうきは市は、他の地域にはない優位性をもった地域であるといえます。知恵と工夫を凝らして、これからも、他の地域とは一味も二味も違う存在感のある、「うきはブランド」を構築してほしいと思います。
うきは市は、地域の自然や歴史、文化を大切にして、「ゆっくり・ゆったり・ゆたかに」潤いのあるまちづくりを進めています。
皆さん、そんなうきは市にこれからも応援をよろしくお願いいたします。
(了)
<プロフィール>
髙木典雄(たかき・のりお)
1951年8月、福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)出身。74年、福岡大学商学部2部を卒業。70年に建設省九州地方建設局(現・国土交通省九州地方整備局)に入省。94年から98年まで、建設省九州地方建設局から浮羽町助役に出向。その後、福岡国道事務所副所長や九州地方整備局調査官、九州地方整備局総括調整官などを歴任後、2012年3月に国土交通省を退職。12年7月にうきは市長に初当選し3期務めた。法人名
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