【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(12)

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 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

NPO= Non-Profit Organization との出会い

 僕は地方分権の受け皿として、国から県市町村への役所同士の権限のやり取りばかりでは意味がない、だからと言って1人ひとりの市民が受けられるわけでもないしと思っているときに、NPOという存在を知り、受け皿はこれだと思った。

 ちょうどその折、日本新党→新進党政策審議室にいた福岡市出身の市村浩一郎氏と日本新党時代だったか新進党時代だったか判然としないが、党の政策方針をつくる作業があった。そこでNPOの話をしたら、市村氏は松下政経塾(9期)の折、アメリカで活動していて、会社でもない、行政でもない、いわゆるNPOというサードセクターの存在を知り、日本でもぜひそういうものをつくりたいと思っていたということで、意気投合した。党の方針に何らかのカタチでNPO法の必要性を潜り込ませようと行動したと記憶している。

 その後、阪神・淡路大震災でのボランティアの活動が注目され、党内にNPO立法パートナーズが誕生し、メンバーに加えてもらっていったが、その後の選挙で僕は政策担当秘書を失職し、立法作業には関われなかったので、外野席から見守った。市村氏はその後、新進党のNPO議員立法専門委員会の事務局長として、NPO関連法案の国会提出に中心的な役割をはたし、阪神・淡路コミュニティ基金事務局長を経て、今は日本維新の会に所属する衆議院議員として活動しているようである。

 僕のこの経験は、後の広太郎さんの市長選挙公約づくりのなかで、NPO支援施策を1つの柱とし、その後の福岡市でのNPO施策の大きな展開につながっていく。ここも点と点のつながりである。

政策秘書の涙

 国会議員のところにはいろいろな陳情が来るが、あるとき地元の旅行社から「香港行きのメンバーのビザが下りない。何とかならないか?」というのがきた。この手の陳情が大嫌いなのだが、第一英国大使館にツテはないし、そんなものどうしていいかわからないで困惑していると、会館外交手腕に優れた守谷聡子さんが、日英議員連盟の会長が海部俊樹元首相であり(当時新進党党首)、そのツテで何とかなるかもしれないと(議連はそういう利用価値もあるのかと目から鱗?)。そこで、話を通してもらって英国大使館を訪ねた。某国への渡航歴があり、時間を要していたが、出発日には間に合うようにビザが下りる予定であることがわかった。その折、日本人の領事さんから「あなたは政策担当秘書なんでしょ!こんなことやってないで、もっと大事なことをやってください」と厳しいご忠告を受けた。本当に骨身に堪えた。国会での野党って本当にやることなくて、「人生棒に振って一体俺は何をやっているんだろう」と、自問自答する日々だったから、余計に堪えた。

 英国大使館はふくおか会館の隣だし、皇居ランのときは必ず通る場所にある。今でも前を通るとあのときの苦い思いを思い出す。議員を御用聞きのように扱う行為が、どれほど政治の足場を掘り崩すか、今でも反吐が出るほど嫌いである。政治改革論議が喧しいが、政治家への厳しい指弾は当然としても、そのような政治風土に我々が加担していないか、今一度、国民1人ひとりが胸に手を当てて考えなければならないと思う。

日本新党と細川連立政権

日本新党のこと

 日本新党とは一体何だったんだろうか? 間違いなく自分の人生を変えた存在であるにもかかわらず、あまりにその末路が無残だっただけに、総括できずに今日まできた。総括なんてとてもできないが、今頭に浮かんでくるものを少し並べてみたい。

 あの文藝春秋の結党宣言を読んで、日本新党に馳せ参じたのは決して僕だけではなかった。いやそれは議員のみならず政策スタッフにもたくさんいた。折からの政策秘書制度の初年度でもあったことから、試験組では凄い人材が集まっていた。当時細川代表の政策秘書は女性(実際には日本新党の政務調査スタッフとして働いていた)だったが、大手都市銀行を退職しての試験組だったし、大手証券会社を退職した若者、国家公務員第一種試験を合格していたが、政策秘書を選んだ人等々多士済々だった。残念ながら、彼ら彼女らの夢と志に応えられるような国政の場ではなかったが・・・。後のことであるが、幸いにして、議員立法の場などで経験を積むことができた僕のもとに、政策秘書としての勉強の場が欲しいとの要請があり、勉強会を結成したりもした。

 一方議員の方では、僕が政策秘書に就任した細川首相の辞意表明以降は、すでに離党者が相次ぐ崩壊の過程だったが、鮮明な記憶が残っている場がある。地方分権に関わる勉強会だったか、たしか広域連合や中核市、パイロット自治体などがテーマだったと思う。参加していた若手の議員(みんな、僕より年下)、記憶が鮮明な前原誠司(元民主党代表)、枝野幸男(前立憲民主党代表)、中村時広(現・愛媛県知事)、野田佳彦(元首相)各氏らの発言が瑞々しくて、国会議員がこんな青臭い議論をするんだと興奮した。地方自治への理解はやや未熟だとは思ったが、そのシャープさは魅力的だった。が、間もなく前原誠司、枝野幸男両氏は離党し、民主の風を結成。自・社・さきがけ政権下、さきがけに入党していった。離党の日、前原誠司、枝野幸男両氏が挨拶にきて、涙を流していたことを思い出す。

 同期当選組35人、玉石混交だったり、小選挙区の事情だったりで多くの人が消えていったが、やっぱり結構人はいた。自民党の同期当選は安倍晋三、岸田文雄両氏だが、日本新党出身で今生き残っているのは、第95代内閣総理大臣を務めた野田佳彦(松下政経塾1期生)、民主党代表を務めた前原誠司、前立憲民主党代表の枝野幸男、現衆議院副議長の海江田万里、現参議院副議長・長浜博行の各氏、自民党に転じたメンバーでは、現幹事長の茂木敏充、前総務会長の遠藤利明、元金融大臣伊藤達也の各氏、与野党共に錚錚たる顔ぶれである。地方に目を転じると愛媛県知事に転じた中村時広、当時から魔女の雰囲気だった現東京都知事の小池百合子、超俗物の現名古屋市長河村たかし(ああいう御仁がいまだに政治家/市長の椅子にあるというのも呆れてしまうが)、広太郎さんの市長就任の後を追うように横浜市長になった中田宏(今は自民党の参議院議員)の各氏がいる。

 日本新党はうたかたの夢のように消えていったが、人材はレガシーとなった。まさに「全国津々浦々から海鳴りのように呼応して立ちあがり、やがて大きな船団が形づくられ(結党宣言より)」ていたのだ。

細川連立政権とは何だったのか

 奇しくも、昨年は細川政権の成立から30年目を迎えた。マスコミでも細川政権とは、政治改革とは、何だったのかが時折取り上げられていた。僕なりに考えてみたい。

 日本新党は良かれ悪しかれ細川護煕氏が1人で立ち上げ、政権の投げ出しとともに消えていった。細川氏は、結党宣言のなかで「私は自ら大海の捨て石になることを恐れない」と言っていて、細川政権がとは言いすぎかもしれないが、日本新党は捨て石そのものだったかもしれない。その意味で、日本新党は細川氏の私党のままで終焉を迎えてしまったということではないか。何の準備も心構えもないまま、政権を担い、あまつさえ総理を輩出する政党となった日本新党の役割はなんだったのか? 連立政権8党派の接着剤、緩衝材、触媒、どれも違う気がする。

 誤解を恐れずにいえば、やっぱり捨て石が一番ぴったりするのかもしれない。日本新党に政権への準備のあろうはずもなかったが、細川氏には「その気」があったのだろうと思う。ロシアから消されたとも言われていた叔父の近衛文隆氏の遺志を継ぐことが政治家を目指した理由だと語っていたし(『内訟録』2010)、時来たれば総理をと意識していたと思う。準備「不足」には違いないのだが、千載一遇の機会が降って湧いたわけで、彼は最初の総理記者会見で年内の政治改革関連法案の成立を約束し、先の大戦が侵略戦争であったことを認めた。この表明は国内外で高く評価されたし、政権交代というのはこういうことかと強く実感したことを思い出す。その細川総理の覚悟に国民は80%を超える支持率で応えてくれた。

 しかし、なんせ8党派の連立政権、その総選挙で一番大きく負けた社会党(136→70議席)が最大会派であったことは大きな矛盾だったし、しかも選挙制度などの改革に極めて後ろ向きで、政権の足を引っ張り続けた。その意味で民意に背く数合わせの連立政権であり、非自民が唯一の接着剤だった。その社会党が自・社・さ政権に入るのだから、政治の世界は一寸先は闇だし、社会党→社会民主党は、30年の歳月をかけてそのツケを払い続けているのかもしれない。

 ある意味、民意の象徴だった日本新党とさきがけが統一会派を組み、年内には「さきがけ日本新党」の結成を公表し、日本新党代表の細川護熙氏が総理に、さきがけ代表の武村正義氏が官房長官に就任することに一理はあった。しかし、ここに確執が生まれ、政権崩壊の火種になってしまった。何が違ったのか?

 細川護熙氏は日本新党を捨て、理想主義の旗を降ろして、総理大臣として政権が直面する課題、政治改革、ウルグアイラウンド、経済対策、税財政対策に取り組むために、新生党・公明党の「一一ライン(小沢一郎と市川雄一)」を重用した。その一方で武村正義氏は官房長官である以上に、小沢=経世会への不信を払拭できない「さきがけ」の代表で在り続けたことにあったと、今僕は思う。後年武村氏が小沢氏と食事をした折に、小沢氏が「武村さんをもっと早く知っていればよかった」と言ったと語っている(『武村正義回顧録』岩波書店2011、201p)。人の好き嫌いが政治の機微じゃ困るんだけど。

細川護熙氏の広太郎さんへの弔電 ──令和3年(2021)3月

 「日本新党の立ち上げの時から同志として、日本の政治の刷新のために、さまざまな取り組みにご一緒させていただきました。思い出は尽きませんが、日本新党は若い人が多かっただけに、ベテランの山崎さんらには、何かにつけてとくに親しくアドバイスなどをいただいたことを思い起こします。コロナ禍はもとより、内外共に難しいかじ取りを要請されている時だけに、いろいろとご高説を拝聴したいという方も多かったことと思います。こんなに早く、突然に旅立たれて本当に残念でなりません。 心よりご冥福をお祈りいたします。」

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

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