【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(15)
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
〈新進党新聞〉平成8年(1996)7月10日/号外
初めての小選挙区による総選挙を目前に、新進党新聞の号外を発行したが、その内容は政策担当秘書としての僕の卒業論文みたいなものだったので、ここに揚げておきたい。
『分権の風が新しい日本の扉を開く ―この国に本物の民主主義を―』
行政に依存しすぎた「この国のかたち」がいま問われています。阪神大震災では国の生命や財産を守れず、薬害エイズ問題では国民の生命や健康を奪い、そして、とうとう住専問題で国は政策の失敗や後始末を税負担というかたちで国民に押し付けてきました。
1億2,000万人の国民を統治の対象とのみとらえる中央集権的行政システムでは、この国は最早立ち行きません。時代は今大きな変革期を迎え、社会の成熟化、高齢化が国民の多様な価値観と社会構造の複雑化をもたらします。
これまでの画一的な行政システムは急速にその対応力を失い、国民の信頼を失っています。その一方で、阪神大震災では130万人ものボランティア等の自主的、自立的な市民セクターが活動し、硬直化した行政システムの限界を市民自らの力で見事に克服しているのです。
今こそ官尊民卑、お上依存意識を脱皮し、市民のエネルギーと創造性を全面に引き出した、「分権」「参加」「協働」による大胆な社会システムの転換を行わなければなりません。
市民が主役の時代です。そのために、私は地方分権、情報公開、NPOの振興の3つの施策を実現します。ホップ=地方分権、ステップ=情報公開、ジャンプ=NPOの振興。
小選挙区の公認と山山戦争
政治改革関連法案は平成6年(1994)3月4日に可決成立し、区割り法案が11月21日に成立したことにより、一連の政治改革は完結した。衆目はそれぞれがどの選挙区を割り当てられるかだった。広太郎さんは前回選挙で全国最多の得票で当選しており、もともと南区選出の市議会議員でもあったことから選挙区は新2区(中央区、南区、城南区)が当然視される一方で、当時の自民党政調会長・山崎拓氏も地盤は同じで、新2区が有望視され、世上では全国屈指の激戦区「山山戦争」などと取り沙汰されていた。
第一次公認が平成7年(1995)3月17日だったので、その年明け頃だったのかと思うのだが、当時の新進党選挙対策委員長・船田元氏との面談が設定され、広太郎さんに同行した。立候補する選挙区の最終確認のような場であった。選択の余地としては新5区というのも有力だった。広太郎さんは春日東小卒で、春日市を中心に地縁があり、福岡県知事選挙の経緯もありで、自民党の自治体議員を含め5区でやれとの声も強く、5区なら楽勝との見立てもあった。福岡県選出の国会議員の秘書との飲み会でも山崎拓氏のM秘書から、「5区に行ってくれ。落選したら、あんたはまだつぶしがきくやろうけど、僕などはそうはいかんのやから」と。新進党としても落とせない議員(小沢幹事長の方針で重複立候補は無し)であり、5区ではなくて、自民党の現政調会長・山崎拓氏にぶつかる2区で、「本当にいいですか」と実直な船田元選対委員長による誠意を込めた確認だった。本人にまったく迷いがなかったといえばウソになるだろう?面談直前に、「2区でいくぞ」と同意を求められた。前回の選挙で全国最高得票、山山戦争とも言われ、ある意味因縁の対決でもあり、じゃ5区にしますとはいえなかったのが正直なところか。現職の政権与党自民党政調会長がどれほど強いか、あとで思い知らされることになるのだが。
後年、広太郎さんが「あの時5区を選んでいたらどうなっていただろうか」と呟いたことがあった。期数でいえば8、9期の頃だったか?「そらまだ現役でやってるでしょうし、大臣くらいやったかもしれないが、そんな恐ろしいこと考えないでおきましょう」と、笑ったことを思い出す。
山山戦争/小選挙区制初の総選挙
昭和63年(1988)のリクルート事件以降、竹下内閣、海部内閣、宮澤内閣、細川内閣と4つの内閣を費やして政治改革関連法が成立し、村山内閣で区割りが決まり、そして橋本内閣、実に6つの政権を経て、ついに小選挙区比例代表並立制による第41回衆議院選挙が実施されることとなった。
平成8年(1996)9月27日 衆議院解散、10月8日 総選挙公示、 10 月20日総選挙投票日。
秋の臨時国会冒頭での解散日程は衆目の一致するところで、夏以降は各陣営共に選挙に向けて走り出していった。前回の選挙で日本新党ブームにも乗って全国最高得票を獲得した山崎広太郎氏と現職の自民党政調会長山崎拓氏の対決は、「山山戦争」として、全国注視の激戦区と報道されていた。選挙はこれまで脇から眺めるような感じだったが、当然のことながら、今回は中心スタッフの1人としての働きが求められた。7月8月はうだるような暑さのなか、戸別訪問に汗を流した。この選挙では、新進党小沢党首が比例との重複立候補を一切認めなかったので(このことが有力議員の相次ぐ落選につながり、新進党の分裂の目を広げていった)、とにかく選挙区で、相手陣営から1票でも上回って勝ち上がるしかない。政権与党/自民党の現職三役の政調会長・山崎拓氏陣営が、いわゆる企業/団体など、ガチガチの組織選挙を展開してくることはわかっていたので、とても厳しい環境だった。対して、広太郎陣営は、組織としては連合などが中心となる。
一度、広太郎さんとどういう選挙をやるか、話し合ったことがあった。僕はいつも青臭いが、相手が組織選挙を展開してくるのだから、捨て身で、こちらは企業団体の推薦は一切受けないこととしたらどうか?知事選挙、日本新党での衆議院選挙、福岡1区には2度名前を書いてくれた人たちが多いのだから、ある意味サイレントマジョリティにアプローチする選挙ができないかと提案した。広太郎さんは、意図はわかるが、新進党としての政権選択選挙であり、連合や公明党などの基礎票は必要だろうと言った。僕も一か八かの博打を打つような選挙手法をそれ以上強くは主張できなかった。相手は政権与党で、何度も閣僚を経験し、自民党三役の政調会長であり期数は当時8期目の山崎拓氏。こちらは前回の選挙で全国最高得票を取ったとはいえ、所詮1期目。やっぱり重複立候補があるとないとでは選挙戦略に大きな違いが出るし、ことに広太郎さんにとっては、不利な戦い方になったと思う(選挙区は拓さんだが、比例は広太郎さんでという、今の自公方式のような票の分け合いができない)。そこが政権選択を主眼とする小選挙区制の厳しさでもあった。
新進党はこの選挙にあたっての公約を、暮らしを立て直す「国民との契約」とし、小沢代表は、実行できなければ政治家を辞めると宣言し、いわばマニフェストの前身ともいうべき内容だった。しかし、党内での議論が不十分なまま、その契約内容があまりに過激なものだったので、党内でも動揺が走っていた。これに対し、広太郎さんは「小沢代表は、完全に官僚組織と決別し、腹をくくった。自分もこの公約を前面に出して闘う」と宣言していた。
しかし、選挙戦本番近くになっても、いつも選挙の中核を担うメンバーが集まってこない。おかしいなと思っていたが、あの人までも?という人がきてくれない。まさに自民党側の締め付けだった。いつものメンバーが揃うまでは自分が支えなければと思っていたが、睡眠時間もわずかでいつ倒れてもおかしくなかった。このような難しい選挙を背負う力量は僕にはなかった。結果は、99,075票VS73,066票、完敗だった。そして僕は失業が確定した(解散の時点で政策秘書の身分は失っている)。選挙の前だったか後だったか記憶がはっきりしないのだが、広太郎さんがぽつりと言ったことがある。「俺が曲がりなりにも国会議員が務まったのは、お前がいてくれたからだ」と。広太郎さんはシャイなところがあって、あんまりこういうことを言わないのだけど、なんか肩の荷が下りた気がしたことを思い出す。
この選挙戦の概要について、僕は修論(2003)でこのように書いている。「1996年の衆議院選挙は『失われた十年』の渦中に行われた。自民党VS新進党という2大政党の対決による小選挙区制度として初めて実施されたという意味でも歴史的な国政選挙であり、回復基調にあった日本経済のなか、結果的に大失政となる財政構造改革に大きく舵を切った消費税増税を含む9兆円の国民負担増、一方で大胆な省庁再編などの抜本的な行政改革などが争点となった大きな節目の国政選挙であった。しかしながら、その選挙における論戦はお寒いもので、政権与党の自民党はひたすら新進党に対するネガティブキャンペーンを展開し、対する新進党は消費税の据え置き、所得税・住民税の半減、中央省庁を10省に再編、国家公務員の25%を削減、さらには特殊法人の原則廃止など大胆な公約を「国民との契約」として持ち出したが、党内での議論は不十分で、あまりの過激さに身内にも動揺が走るという始末であった。当時の橋龍人気や自民党のネガティブキャンペーンも奏効し、結果は自民党の大勝であった。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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