【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(16)
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
第4フェーズ 1996.11~1999.3
セカンドカーブの起点/九州大学大学院へ
落選確定の翌日、新進党県連に呼び出され、僕を含めて秘書全員の解雇が通知された。僕は党と雇用関係を結んだつもりはないし、すでに衆議院の解散によって政策秘書の身分を失っている。選挙の事務はあくまでボランティアとして取り組んだものであり、給与の受け取りは拒否し、また解雇を通知される謂われはないと返答した。
後日、広太郎さんから後援会の事務所スタッフとしてきてくれないかとの要請があったが、九州大学大学院への入学意思を伝え、丁重にお断りした。また、国会の方からは、初当選した鈴木淑夫氏(元日銀理事、当時野村総研理事長)の政策担当秘書の話が内々届いていた。驚くような超大物で、未知の分野が学べる絶好の機会だし、僕の国会での働きへの評価でもあるので、ありがたい話だったが、もはや国会で働く気にはなれなかった。人生初の失業であるが、それも自分が選んだ道、落ち込んではいなかった。ある意味スッキリと吹っ切れていたと思う。
今回いろいろ資料を調べたら、経過はこうだった。僕は衆議院の解散(9/27)前の9月4日に、九州大学大学院法学研究科/フレックスコースに受験申込関係書類を提出し、解散の前日、9月26日に書類審査の合格通知を受け、公示の翌10月9日に口頭試問を受け、投票日の3日前の10月17日に最終合格通知を受領していた。だからといって選挙で手を抜いていたわけではないとは言っておきたいが、もともと政治の世界は5年間のつもりでいたし、2年6カ月はちょうど半分で、当初の目論見より短かったが、大学院の修士課程に進み、大学教員の道を目指すことは予定通りといえば予定通り。国政のあまりの惨状に強い挫折感を抱いていたことも間違いないところであるが、しかし、それは次の学びへの強烈なインセンティブともなった。
受験のときに提出した研究テーマは「民主主義の再構築に向けた議院内閣制と地方自治制度の課題」である。何とも漠然としているが、志望理由を今読むとそのときの心情が懐かしい。
入学が決まって、指導教官を今里滋教授にお願いし、平成9年(1997)4月に提出した研究テーマは「分権時代の自治体像―多元的住民自治の構築―」だった。
今日、リカレント教育やリスキリングの重要性が喧伝されているが、九州大学大学院法学研究科/フレックスコースでの学びは、僕の人生のセカンドカーブにおいて、まさにターニングポイントとなる貴重な場になった。ここでの学びがなければ、この本の第2章以降はなかったのだ。ジェットコースター人生もきっと行き場を失っていただろう。点と点をつなげる、まさに大きな結節点となった。
大学では院の講座以外の法学部、経済学部の講座も受講した。初年度に履修した講座を挙げてみる。
法学部:(1)政治学史 (2)憲法第一部 (3)比較憲政論第一部 (4)行政法一部 (5)政治史
経済学部:(1)財政学 (2)日本経済史大学院入学時44歳。大学卒業の22歳から同じ年数の社会人経験を踏んでいたが、学ぶことがこんなに楽しいものなのか、学ぶ喜びを初めて知った気分だった。憲法の講義1つとっても、えーそうだったのかと初めて気がついたり、いや、それは違うなとか、カント曰く「理論なき実践は盲目であり、実践なき理論は空虚である」を実感する日々だった。
妻の大病
妻には、専業の大学院生になるので、2年間は無給になると頭を下げた。織り込み済みのことではあったろうが、妻は詰るわけでも、愚痴るわけでもなく、「わかりました」だった。
それからひと月も経たない12月のある夜、妻から珍しく改まって話があると。健康診断で胸に影が見つかり、確定はしていないがおそらく肺がんであろうとの診断だったと告げられた。手術を1月に行うことになったと。奈落の底に突き落とされるとは、こういうときのことをいうのだろう。このころ、福岡県立図書館を居場所にしていて、医学書を読みあさり、書店の医学関連コーナーを彷徨したが、どれを読んでも肺がんは質が悪かった。天罰が下るべきは僕なのに、なぜ妻なのかと悶絶した。人生のどん底、ジェットコースターの最下点だったろう。
年が明けて1月に九州がんセンターに入院した。4人部屋で同室者は末期のほうが多く、脳に転移して頭にドリルで穴を空けている人もいて、とても堪らず個室に替わろうというが、妻はこのままでいいと言った。肺腺がんのステージはⅢで、手術前の説明では、5年生存率も驚くほど厳しかった。手術室に入るとき、妻が手を伸ばしてきた。ずっと沈着冷静で不安を顔に出さなかったが、やっぱり不安だったのだと己の不覚を恥じながら、手を握り返し、ただただ手術の成功を祈った。手術は予定より少し長くかかった。左の肺葉一枚を切除しリンパ節を郭清した。主治医はI教授だったが、執刀はYさんで、腕利きだった。病院内ではYさんが執刀すると助かる、別の人だとダメだとの噂だったらしい。術後できるだけ早く身体を動かさないと肺機能が低下するということで、妻は2日後には病院内を歩き出し、1週間後には退院した。お見舞いの人たちが間に合わないほどのスピードだった。妻の定期健康診断は結核予防センターだったが、定期健康診断はとても大事だと痛感した。
術後、気功の大家に手を当ててもらったら、「大きな心配ではない」と言われた。そして、広太郎さん/美知子夫人の友人の吉本克己さん(故人)が栽培・製造していた癌の特効薬とも言われていたアガリクス/ヒメマツタケの「長富飲」。これは夫婦で5年くらい飲んだ。薬効があったと僕は思っている。もともと妻は夏でも冷たいお茶も飲まないくらい、基本的に健康志向の生活が身についている人だったし、このころから始めたヨガは今でも続いている。その当時、妻は総務局企画課に在籍しており、部長は鹿野さん。そうそう激務ではないし、下手に異動するよりもこのままがいいだろうと配慮してくれた。その後の福岡県西方沖地震(2005年)のときは、保健福祉局の計画課長として、震災対応の最前線に立った。深夜までの残業が続き、体調を心配したが。そのときの4kgの体重減は元に戻らないらしい。あれから26年、大きな病気もせずに暮らせていること、本当にありがたいことだと感謝するしかない。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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