【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(21)
-
-
元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
第5フェーズ 1999.4~2004.3
市長当選、再びの福岡市役所入り
選挙を重ねた候補者は選挙カーに乗ると、選挙情勢がわかるというが、広太郎さんもその1人。初日の感想は「日本新党の時以上の反応だ」と。
結果的に30%そこそこに低迷していた投票率は43.39%。決して高くはないが、前回比11.72%増であり、描いた選挙構図は図に当たった。188,539票VS167,679票で、20,860票差。マスコミの評価は最後に抜け出したとの見立てが多かった。たしかにそうだったかもしれないが、現職相手に2万票差は完勝と言って差し支えないだろう。当確が何時ごろに出たのか記憶がないが、生涯最高の一日となった。
市議会議長の秘書になって以降、周りの人たちから「将来の市長だから、大切にしてくれ」と言われてきていたし、紆余曲折はあったが、「この人を市長にする」との思いは叶った。思えば叶う、人生は凄いなと思った。ジェットコースターはてっぺんにいた。
それからしばらくは怒濤のような日々を送った。ひっきりなしの電話で、100万票くらい取ったのかと言いたくなるほどだったが、それだけ期待も大きいということで、夢見心地から目も覚めてきた。そして間もなく、我が身の振り方問題が浮上してきた。
選択肢は3つあった。
(1)修士論文を書いて、修士の学位を得て、大学教員の道を進む。
(2)何らかのカタチで福岡市役所に採用される。
(3)市議選に出る。(1)は元々その道を目指して九州大学大学院に進んでいたし、実務経験者として大学教員の可能性に勝手な手応えはあった。指導教官である今里教授とはまだ進路の相談はしていなかったが、とくにNPO法が成立したばかりで、僕はこのNPOがこれからの日本社会に大きな役割を果たすことになることを確信していた。しかし、教育、研究分野では未開の地であり、NPO法の成立以前から関心を持ち関わってきた自負もありで、この分野で食べていけるのではないかと捕らぬ狸の皮算用をしていた。ただ、この時点で具体的な道筋はまったく見えていなかった。
(2)は公約づくりなどで深く関わってきた人たちから、「公約をつくりっぱなしでは、無責任じゃないか。何らかの立場で市役所の中で関わるべきだ」という声が強く大きかったし、僕自身としても、つくった以上キチンと見届けたいという気持ちの一方で、その大変さや針の筵の恐ろしさも容易に想像できた。また、いつまで定職/肩書きのない生活を続けるつもりか、との切実な思いが強かったのも正直なところだった。
(3)は広太郎さんに議会事務局時代から、「何でお前が議員を目指さないのか、だから議会に人材が集まらないじゃないか」と言われていたが、政策スタッフには魅力はあっても期数/年齢がものを言う議員になる気にはなれなかった。半年後に市議選を控えているタイミングで、市長選挙の余勢を駆って出る?僕は東区香住ヶ丘に生まれ育ち、幼稚園から中学校まで地元だし、当時たまたま東区選出に福高出身者がいなかった。ポッカリ空いたチャンス、一番これが実現可能性が高いかもしれないとの思いもわずかに頭を掠めた。しかし、前年妻が大病をしており、選択肢たり得なかった。
そうしたなか、年は明けていたと思うが、友池助役から呼ばれて、市役所15階の喫茶室で面談した。友池助役からは正規職員としての採用は難しいことが伝えられ、僕からは選択肢(1)(2)で迷っていると正直に話して面談を終えた。その後、嘱託職員としての採用の案が市長側に伝えられた。
ここに至り、僕には意地のようなものが生まれた。
政策担当秘書として、実績を残し、評価もいただき、地方公務員/自治体職員→国家公務員特別職/政策担当秘書の一つのキャリアパスをつくったという自負があったし、任期付き職員の採用など、外部人材の積極的な登用が求められてきている時代背景を踏まえると、嘱託職員という位置づけは、これまでのキャリアをドブに捨てるような思いがした。政令指定都市の市長なので、条例をつくれば、特別秘書としての道はあったし、僕はそれが選べれば一番良いとの思いはあったが、オール野党の議会の情勢から、この方法は広太郎さんも選ばなかった。
結果的に、僕は一般職での採用を求めた。人事当局からは係長級での採用の打診があった。国における政策担当秘書の処遇水準(国家公務員一般職本省課長補佐以上に相当)が考慮された形跡はなく、当初のキャリアで平成元年(1989)に係長級に昇任していた延長線上での判断だったか、今となっては定かではない。周りからは「そんな処遇じゃ、後に続く人が歩ける道にならない」「選考採用なのだから、少なくとも課長級じゃないと説明がつかない」などなど、いろいろ言われて、どれもそうだと思ったが、だんだん面倒になってきた。ポスト欲しさにゴネていると思われるのも不本意だった。係長級での採用案を受けることにした。僕はこういう肝心なところでの我慢が足りないというか、人の目を気にしたり、感情に流されて判断を間違う。
半端な話を受けてしまっては、受ける側、入る側双方の覚悟が定まらない。やるべきことと組織のなかでの位置づけの乖離は、組織のなかに無用の軋轢を生むし、ストレスとしてでしか解決されない。結果的に僕の心身を蝕んでいった。針の筵の覚悟も甘かったと思う。僕は人に恵まれてきたし、仲の良い先輩、同僚、後輩がたくさんいたので、何とかなるだろうと思ってしまった。
しかし、僕の立場はそんな甘いものではなかった。戦後の市政史上初めての政変、桑原前市長は労働事務次官のキャリアに相応しく、いわば政令指定都市の末席に過ぎなかった福岡市を5大市に肉薄するポジションに引き上げていたし、職員も同様に自信に溢れていた。八方美人で、人に嫌われることが苦手な僕には、虎の威を借りる狐の見立てが容赦なく襲いかかった(いや襲いかかってきているように感じてしまった)。議会でも、「市長の元政策秘書の市職員としての採用は個人的な事情によるものではないか」と追及されたし、組合ニュースにも書かれたが、何より匿名での陰湿な投書もつづき、小心者の僕にはボディブローのようだった。でも本当は、内外に応援してくれている人たちもたくさんいたのだけど。かつての麻雀仲間だった人事委員会の先輩が、廊下ですれ違ったとき、「あんたのことは全然大丈夫、心配せんでいい」と言ってくれた。1人でも味方がいると思えるのは、正直嬉しかった。
市長室経営管理課へ
当選後の初議会において、山崎市長は「大規模事業点検プロジェクトチーム」と「経営管理室」を発足させ、これを両輪として行財政改革を推進することを明言した。
1月早々に大規模点検プロジェクトチームは発足したが、車の両輪の片方「経営管理室」の設置は難航した。ようやく新年度の予算や機構改革の作業のなかで、「民間人をトップにした市長直属の経営管理室の設置」については民間人で構成する経営管理委員会を設置し、市長直属の組織として市長室に「経営管理課」を設置することとなった。4月1日設置された「経営管理課」は課長1、係長1の配置であり、担当する職務は民間経営手法の導入研究、外郭団体経営評価システム研究、PFI手法の研究など、ヒカリものオンパレードであるが、まずは様子を見る、お手並み拝見といったところであったと思われる。
僕はそうしたなか、4月21日、「政策担当秘書としての行政運営の知識・経験及び九大大学院における研究活動に基づく経営管理に関する知見を有する」ものとして、市長室経営管理課主査として、選考採用されることとなった。しかし、この貧弱な体制は(経営管理委員会立ち上げ直前の8月1日付で職員一名増、奥田一成君がメンバーの一員となった)スタッフ全員を早晩心身共に過酷な勤務状態に追い込み、まさに無定量な仕事が降って湧いてくることになっていった。
経営管理委員会の元には3つの作業部会「行政評価チーム」「企業会計チーム」「ベストプラクティスチーム」+プロポーザル委員会が設置され、その他の業務を含め、経営管理課では2日に1度以上の頻度で会議を開催することになった。それに加えて、僕はPFIのガイドラインづくりの業務も持っていた(1,000万円の委託料だったか?委託先が極めて有能かつ誠実だったので、PFIをこちらが一から教えてもらいながら、ガイドラインの叩き台やPFIの適性事業の選別などを進めていった。これだけで一人分の業務量は十分にあったと思う)。
ただでさえ一筋縄ではいかない経営管理委員会本体の事務局業務の外、その他の打ち合わせのための会議も多く、土日も休みなく働いていた。少ない人数で作業もままならず、唯一ヒラ職員の奥田君は1日15時間以上ワープロを打ち続け、「目のかすみ・充血」用目薬が週に1本のペースでカラになっていたらしい。奥田君の驚異的な頑張り(職員2、3人分はあった)と仕事のレベルの高さがなければ、経営管理委員会の提言まではたどり着けていない。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411関連キーワード
関連記事
2025年2月25日 13:402025年2月21日 15:302025年2月20日 13:002025年3月6日 12:002025年2月26日 13:302025年2月6日 11:002025年1月24日 18:10
最近の人気記事
まちかど風景
- 優良企業を集めた求人サイト
-
Premium Search 求人を探す