「洗脳世代」からの提言(2)「原爆トラウマ」

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福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

 小学校時代、教室に入るや「民主主義」の大切さを聞かされた。決まって、アメリカの明るいイメージがそれにともなった。しかし、他の一方で「原爆」の恐ろしさということも教わった。今思うと不思議なのは、その原爆とアメリカとが少しも結びついていなかったことだ。

 原爆については、学校生徒全員であったか覚えていないが、映画館に連れていかれて原爆映画を見たことがある。暗い映像が続いた後、「ふるさとの街」で始まり「ああ許すまじ」で終わる主題歌が流れた。だがそのときも、原爆とアメリカは結びつけられていなかった。

 ラジオのニュース(テレビはまだ普及していなかった)からは「シモヤマさん」とか「ビキニ」とかが聞こえ、それらが暗いニュースであるとは感じられたが、なんのことかわからなかった。また、「ジェラード・カシカン」というアメリカ兵のことも耳に入ったが、なにか恐ろしいことがあったとは感じられても、内容が分からなかった。

 今思うと、それらのニュースにはどこか「反米」のトーンがあった。だが、それが表に出てこない分、かえって不気味に感じられた。「反米」は、おそらくタブーだったのだ。

 戦後の復興ムードは少しずつその恐怖を消してゆき、テレビが普及しはじめると、前にも言ったようにアメリカのテレビドラマが画面を支配した。どれも明るく愉快で、これで「幸福な民主主義のアメリカ」というイメージが定着した。

 原爆といえば、日本の漫画では手塚治虫が活躍し、『鉄腕アトム』が絶大の人気だった。当時は気づかなかったが、この「アトム」という名は「原子」のことだから、少年ロボットは「原子力」の象徴だったのだ。

 このアトムが正義の味方で強大な力をもち、しかも可愛いとなると、作者の手塚治虫が意図したわけでなくても、それが「原子力の平和利用」を宣伝していることは間違いなかった。2011年の福島原発の事故があったのちも、その効果はおそらく消えていない。

 映画館では『ゴジラ』が大成功だった。東京の町を破壊するあの怪獣の恐ろしさがウケたのだろうが、一体、私たちはこの怪獣に何を感じたのだろう。原爆のイメージと重なるものがあったのか、それとも米空軍による東京大空襲を偽装したものだったのか。

 今思えば、いずれもが原爆によるトラウマの産物である。太古の恐竜であった生き物が太平洋上の水爆実験で覚醒したという設定は、あまりにすごい。とはいえ、『ゴジラ』は「特殊撮影のすばらしさ」として評価されながら、そのテーマは忘却されていった。やがてそれは、「日本の技術の高さ」という神話に置き換えられたのだ。

 「原爆によるトラウマ」と言ったが、トラウマというフロイトの発明した語は、過去に受けた精神の傷がさまざまな偽装のもとに生き残ることを意味する。私たちはその傷を、知らずに引きずっているのだ。

 このトラウマは戦後日本を貫通しているもののようで、最近になって見た『Fukushima 50 フクシマフィフティ』という日本映画にもそれは残っている。この映画は福島原発事故の際に命懸けで事故の拡大を防ごうとした50人の奮闘を語ったもので、そのドラマ設定は現実に即していて観客の共感を得ている。しかし、映画の最後には「原子力は日本の未来」という横断幕が掲げられ、それが青空を舞った。正直なところ、「問題をはぐらかしている」と思わざるを得なかった。

 この映画に原爆トラウマがあるというのも、まず題名が英語である。これを見るだけで、私たちが原爆の恐ろしさと、それを投下した国への憎しみとを、自身のなかに認めがたいことがわかる。英雄物語で感動を誘いつつ、「原子力の平和利用」という言葉を信じさせようとする、ほとんど無意識のはぐらかし。このはぐらかしは、いまだに私たちが原爆のトラウマから癒えていないことを示す。

 トラウマとは、その傷を心の奥で感じつつ、それについての意識を別の方向に向けてその場しのぎをするプロセスを含むものなのだから。戦後日本人はおそらくこのプロセスを繰り返してきた。

 ところで、私が戦後日本のトラウマを思い始めたのは、フロイトの精神分析を知ってからである。フロイトの『ヒステリー研究』を読んだとき、心の底から感動した。その感動が基になって、私たちは戦争ノイローゼから癒えていないのだと気づき、原爆によるトラウマを考えるに至ったのだ。

 長崎の原爆記念館に韓国の友人と一緒に行ったことがある。私としては、三度目の見学だった。ひと通り展示を見たその友人が、私に真顔で尋ねた。「アメリカを憎んでないんですか?」。私は答えられなかった。「洗脳世代」の私には、その問い自体がきつかった。

 「愛がないところに、憎しみはない」という。となると、「憎しみ」を禁じられた人間は本当の「愛」を育てることもないことになる。

(つづく)

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