「洗脳世代」からの提言(3)「ロシアという影」

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福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

 戦後生まれの私が「アメリカ」という絶対イメージから脱却するには、「ロシアという影」が必要だった。当時は冷戦時代であったから当然かもしれないが、冷戦でアメリカと対決していたのは「ソ連」であって、「ロシア」ではない。

 私の少年期から青年期にかけて、「ソ連」は悪い国の代表であった。大人たちは「ソ連は怖い、なにをするかわからない」と言っていたし、「日本を裏切った国だ」と話している人もいた。歴史を知らなかった私は、漠然と「暗くて恐ろしい国」を想像した。

 そうしたソ連のイメージは、半ば真実であったかもしれないが、半ばアメリカの情報戦略によるものだった。日本政府はその戦略を喜んで引き受け、それで満足していたように見える。

 ところが、中学生になって音楽の時間ではロシア民謡を習った。なかなかいい曲である。国語の教科書にはロシア作家の文章が載っていた。読めば、悲痛な叫びの向こうに希望の光が輝いていた。というわけで、私たちの心のなかには、「ロシア」が見えないかたちで入り込んでいた。

 だが、その「ロシア」は必ずしも「ソ連」とは結びつかなかった。歴史の授業でロシアは革命があってソ連となったと教わっても、ピンとこなかったのだ。ところが、高校生になって19世紀のロシア文学を読み始めると、「ロシア」が「ソ連」へと変貌する気配が見つかり、納得した。ソ連がロシアの一形態であることが、徐々に見えるようになってきたのだ。

 思い返せば、私がロシア文学に感じたのは深い人間性だった。悲惨のなかから生まれる強い連帯の感情。「人であれば、誰でも大切なのだ」という力強いメッセージが伝わってきたのだ。そのメッセージは「大地」と結びついていた。

 当時、ソ連製の映画も日本に入ってきて、『誓いの休暇』という映画を見る機会があった。そこにはロシア文学の魂が脈々と流れ、心から感動した。「ソ連」はやっぱり「ロシア」だったのだ。

 ロシアの存在があったことで、「洗脳」で世界が見えなくなっていた私の脳に新しい窓が開かれた。だからといってソ連びいきになったことはないが、「アメリカ」が光とすれば、「ロシア」は影となって心の底に忍びこんだのだ。大学に入ると、迷わずロシア語を第二外国語に選択したのは、このロシアを身近に感じたかったからだ。

 しかし、学生紛争真っただ中で、語学の習得どころではなかった。ロシア語を選択した学生たちのクラスは、共産党系の「全学連」が主流であった。「全共闘」はほとんどいなかった。ノンポリだった私はどちらにもついて行けず、おまけに生意気なことに、「学生運動」なるものを信じていなかった。

 同級生がデモに参加するのをみても、「本気で信じてるのか?」と疑った。クラスの仲間から「今度こそデモに出ろよ」言われても、答えはいつも同じだった。「参加しなくちゃならないと納得したら、参加するよ」

 同じクラスではなかったが、将来伝道師になりたいという東北出身の男子と知り合った。その彼は、ヘルメットにゲバ棒をかつぐ学生を見ると「なんというエネルギーの浪費」と憤っていた。彼には「左翼」も「右翼」もなかった。あらゆるイデオロギーを嫌い、宗教的心情と哲学的思索だけを大切にしていた。

 彼とはよくロシア文学の話をした。ニーチェについても語り合った。今はどうしているだろう。政治一色だった時代に彼と親しくなったことは、とても貴重なことだった。

 その彼がよく言っていた。「アメリカ人は底が浅い。ロシア人のように人間の気高さと卑劣さ、高慢さと謙虚さとを知らないんだ」

 そう言われてみると、アメリカ人の発想がやたらに楽天的で、底が浅いことに気付かされた。クラスに蔓延する反米意識とは別の経路で、私は少しずつ「アメリカ」から離れていった。

 大学紛争には積極的に関与しなかった私でも、あの紛争が私たち学生の運命を変えるものであったと思っている。暴力闘争で命を失くした仲間もいれば、機動隊に頭蓋骨を折られた知り合いもあった。クラスで闘争の先頭に立っていた男子は、卒業後ジャーナリストとなったが、その彼は後に自殺している。

 ノンポリの私にしても、紛争後の人生はそれまで描いていたものとは大きく変わった。日本の現実がいかにもつまらなく思え、ソ連に留学しようとさえ思った。しかし、実際にはいろいろ障壁があって、それは実現しなかった。

 新たな選択肢としてフランスが浮上した。大学四年生のときフランス政府の奨学金試験に合格し、留学することになった。私の人生の大きな転機である。

 フランスでの2年間は、私にとって「洗脳」からの脱出の真の始まりだった。彼の地で私は、生まれて初めて「考える」ということを知った。また「世界」を知った。そして、そこから「日本」というものを考え始めた。フランスで得たものは大きい。それについては次節で述べたい。

(つづく)

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