【連載4】生と死の分岐点:腎臓は手入れが要

甲子園優勝させた元校長

イメージ    「どちらさまですかね」──それは、30年来の付き合いだった元校長からの最後の言葉だった。

 豪快な酒好きで知られ、エネルギッシュに活動していた人物だったが、ここ数年の変化には愕然とさせられるものがあった。数年前までロータリークラブの例会で姿を見かけていたものの、近ごろは顔を見ることもなくなっていた。半年ほど前までは道端で偶然出会うこともあったが、歩幅が狭まり、足取りは明らかに鈍くなっていた。歩行速度も極端に遅くなり、前に進むことすらままならない。「典型的な糖尿病末期の症状だ」と、医療関係者はいう。

 そして、さらに衝撃を受けたのは、久しぶりに顔を合わせたときの言葉だった。「どちらさまですかね」。それは、記憶から筆者の存在が抜け落ちていることを意味していた。あまりのショックに、言葉を失った。

男性は78歳から老化が進行、加速化する

 同じように、筆者の次兄も81歳でこの世を去った。スポーツマンで柔道3段の腕前、若いころから健康そのものだった兄に、糖尿病の兆候はなかった。高血圧の持病こそあったものの、日頃から薬で血圧を管理していた。

 そんな兄が倒れたのは、故郷・宮崎の美々津カントリークラブでゴルフをしていたときだった。上り坂のコースで歩調が合わなくなり、突然倒れ込んだ。自力で立ち上がることができず、筆者が駆け寄って肩をかしてもなお、起き上がれなかった。地面を這うようにして動こうとする兄の姿は、今まで見たことがないものだった。

 そのとき、兄は78歳だった。あれほど元気だった人が、まるで別人のように衰えていた。「男は78歳を境に老化が急速に進む」──後に知ることになる医学的な冷厳な現実だった。
 しかし最期は医療過誤だったと思う。歯科治療にともなう「血液サラサラ薬(抗血栓薬)」の一時中止によって命を落としたと考えている。歯科医の指示により1週間薬を中断したところ、5日目に体調が急変。めまいを訴えて緊急入院となった。

 ベッドの上では意識がもうろうとし、最初の面会では筆者を認識できたものの、それ以降は無反応となり、ついに意識が戻ることはなかった。最期まで会話を交わせぬままの別れとなった。

妻との別れまでの2年間

 どの時点から線を引けばよいのか──。いまだに私のなかで答えは出ていない。しかし、妻・悦子との別れにいたるまでの2年間を振り返ると、その間に加速度的に老化が進んでいったことは間違いない。

 最初に気づいた変化は、慎重だったはずの運転に現れた。半年のうちに、信じられないような交通事故を2度も起こしたのだ。いずれも安全確認が不十分だったことが原因だった。私は迷うことなく運転免許の返上を促し、それ以降は彼女を助手席に座らせ、私が運転するようになった。

 やがて、車のドアを開けて外に出るのに時間がかかるようになり、ついには自力でドアを開ける握力さえ失っていった。その様子を目の当たりにしながらも、できる限り支え続けた。

 彼女が天に召される1年前からは、毎週土曜日、唐津の病院への通院に付き添い、運転手役を務めた。しかし、体調は徐々に悪化し、食欲も落ち、体重はついに40㎏を下回るようになっていた。

 そして、最後の引き金となったのは新型コロナウイルスへの感染だった。判明した彼女の病名はALS(筋萎縮性側索硬化症)。容赦なく進行するこの難病と闘いながらも、懸命に生き抜いた悦子の姿は、今も私の心に深く刻まれている。

腎臓の活性を保つための手入れが要

 人間の体は、およそ37兆2,000億個もの細胞で構成されていると言われている。外部から細菌などの異物が侵入すると、体内の細胞たちは「あそこから侵入してきた異物は俺が引き受ける」と声を上げるかのように、それぞれの持ち場で戦いを繰り広げる。

 その戦いの末、不要になった物質は「老廃物」となり、腎臓へと運ばれていく。そして腎臓でろ過され、体外へと排出される。

 この腎臓が常に正常な状態で機能していないと、体全体の免疫力が鈍り、厄介な病気にかかりやすくなってしまう。だからこそ、腎臓は「体の運命を左右する器官」ともいえるのだ。

 そんな重要な臓器である腎臓には、定期的にエネルギーを補給してあげることが必要だと私は考えている。実際、私は毎週1回「腎臓の手入れ」と称して、エネルギーの供給を欠かさず行っており、この手入れを怠らないからこそ、今も健康を保てているのだと感じている。

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