福岡大学名誉教授 大嶋仁
ヨーロッパとは単なるEUではない。音楽、美術、哲学、科学、キリスト教、さらには啓蒙思想まで、多様な要素から成る「文明」としてのヨーロッパが、本来の姿である。しかし、そのヨーロッパはいま、アメリカ依存と自己喪失により、自立性と知性を失いつつある。ロシアとの断絶や、日本を含めた他文明との関係も複雑化するなか、真の復興には古典的精神と哲学への回帰が不可欠だ。ヨーロッパの未来を考えることは、同時に世界の未来を問うことでもある。
(2)アメリカ
現在のヨーロッパはアメリカに頭が上がらず、道に迷っている。ヨーロッパが世界に発信した18世紀の啓蒙思想は、ヨーロッパの最後の牙城であるにもかかわらず、それを見失ってしまったのか、アメリカ式民主主義に圧倒されている。
そもそも、アメリカ式民主主義の土台はヨーロッパの啓蒙思想である。ニューヨークの玄関口にある「自由の女神」は、啓蒙思想の国フランスがアメリカの独立を祝って寄贈したものだ。アメリカの独立戦争は、ヨーロッパ啓蒙思想が生み出した「自由」と「平等」の実現を意味した。ヨーロッパなくして、アメリカはあり得なかったのだ。
ところが、20世紀の2つの大戦の結果、ヨーロッパは疲弊し、アメリカがヨーロッパを指導する立場になった。では、アメリカの民主主義は、ヨーロッパの啓蒙思想を凌駕するものなのか?
「そんなことはない」と言い切るには、19世紀のフランス人トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(1835年)に立ち返る必要がある。この本は、少なくとも民主国家を自称する国の民なら、一度は読まねばならないものだ。アメリカ在住40年という政治評論家の伊藤貫も、これを推奨している。本当の民主主義とは何なのか、それを教えてくれる一冊だ。
トクヴィルの目的は、どうしてアメリカでは民主主義がヨーロッパより機能するのかを知ることにあった。しかし、研究を続けているうちに、彼はアメリカ式民主主義には大きな欠陥があることを見つけ出した。その欠陥とは、この民主主義は「多数派の独裁」に向かわざるを得ないというもので、これでは本来の民主主義を裏切ることになるのである。
言い換えれば、アメリカ式民主主義は、「質はどうでも量がすべて」という危険な発想を根底にもっているということだ。
なるほどそうかと思って世界を見ると、たしかにアメリカ式民主主義を是とする国は、世界中どこでもこの危険をかかえている。日本の政治がおかしくなっているのも、そのせいなのである。
多数決の原理は一見して公平であるが、そこでいう「多数」とは、権力システムが操作しやすい「無知蒙昧な徒」にほかならない。となると、現代のように一般人が共有できる知識を技術的に操作できる時代においては、「多数派の独裁」に陥る危険は大きいのだ。
トクヴィルが予見したのは、アメリカ式民主主義によっては「質を重んじる文化」が育たないということであった。そういう文化においては「哲学」が育たないので、政治を議論するにしても、物事の表面しか議論できない。つまり、そういうところでは批判精神が育たないのだ。そして、批判精神のないところ、民主主義は育たない。
トクヴィルは自国フランスの政治を「是」としてアメリカ批判をしているわけではない。自国の政治が破綻していることを自覚していたのである。このことは、裏を返せば、彼にはそれを自覚できるだけの哲学があったということだ。そこが彼の強みだった。
哲学があるということは、自分のやっていることを客観的に評価できる精神をもつということだ。卑近な例だが、シカゴ・カブスで活躍する今永昇太投手は「投げる哲学者」といわれる。彼には自身のパフォーマンスを点検し、それを言語化し、そこでわかったことをフィードバックする能力が備わっているのである。彼より才能ある投手はいくらでもいるだろう。しかし、彼ほどに「哲学」している投手はまれである。
一方、アメリカのトランプ大統領はどうか? 時に「天才的」な閃きが感じられるこの人には、およそ哲学というものがない。その発想の幼稚さはアメリカ文化の幼稚さであり、トクヴィルの言った「多数派の独裁」を体現している、としか見えないのである。
ヨーロッパに話を戻すと、ヨーロッパ人は自分たちの依って立つ基盤としての啓蒙思想のおさらいをしなくてはならない。モンテスキューに始まり、ヴォルテールとディドロを経てルソーに至るこの道筋を、もう一度たどって見ることだ。
モンテスキューは三権分立を提唱し、多くの国がこれを「是」としている。ヴォルテールは思想の自由、とくに「信教の自由」を強調し、宗教的な狂信がいかに宗教の本質から外れているかを示した。一方のディドロは『百科全書』を構想し、どのような分野の知識も重要で、科学から文学まで、数学から美術にまで、ひろく関心をもつことを重視した。そしてルソーはというと、彼の「人権」の思想こそが現代世界の最大の価値となっている。
以上、ざっと啓蒙思想を見たが、そこに共通するのは「広く知る」と「深く考える」の2つである。「考える」とは信じ込まないこと。それには「広い知識」が必要である。アメリカ式民主主義にはこの精神が欠けており、それに追随する世界の国々は、「多数派独裁」の道を突っ走っている。
(つづく)