民主党・古賀之士氏のバックボーン(前)~戦死した祖父と15歳から一家を支えた父
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「私には、新しい道を突き進む思いにさせたバックボーン、思いがある」。民主党福岡県連が来年夏の参院選選挙区に擁立を決めた古賀之士(ゆきひと)氏(56)は、6日の党員・サポーター集会で、これまでの生い立ちや報道の現場で感じてきた政治や社会問題について、立候補を決意したバックボーンを語った。
古賀氏は、福岡放送のアナウンサーを31年間務め、選挙特番の司会や選挙事務所からの中継レポート、県内60市町村を取材した報道の現場にいた。
「いままでの私の生い立ち、実はテレビの中では時間があるようで、自分からのお話をする機会はそうなかった」として、不偏不党、政治的公平などの放送法にもとづく放送局の一員としての立場があったからだ。
それが、候補者の公募に応じた以来の1、2週間で大きく変わった。
「まだ自分の意見を言うのに慣れていない」と謙遜するが、集会で語ったバックボーンや政治への思いは、党員・サポートーに大きなインパクトを与えた。細川政権誕生以来の20年間の選挙のたびに、「今度こそ政治が変わる、誰かが政治を変えてくれるという思いをしてきた、その人がいつどのタイミングで出てくるかと密かに思っていた」と明かした古賀氏。「なかなかその誰かは現れません。悩みに悩んだ末、自分自身がその誰かになる、そう決意した」と言う。
安保法成立「危機感さえ覚えた」
古賀氏をつき動かしたのは、今年9月の安保関連法成立だった。「憲法学者の9割、国民の8割以上が説明不足と言われるなかで行われた。日本にとって大転換だった、危機感さえ覚えた」として、「物事を決めたプロセスに大きな欠陥があったと言わざるを得ない。日本の平和を大きく左右する今回の安保法案の決め方には、皆さんと同じように強い疑問を感じていた。その強い疑問を抱いていたにもかかわらず、放送法という私なりの立場で不偏不党、政治的公平でなければならない立場だった」と振り返った。
「奨学金をやっと返せた…」。忘れられない父の一言に苦労を知る
古賀氏は、平和への願いのバックボーンとしてこれまで同級生にも話したことのない生い立ちを語った。古賀氏の祖父は、昭和20年1月20日、現在のミャンマー(当時、ビルマ)と中国の国境付近で戦死したという。残された7人家族は、母子家庭となった。「15歳の長男だった父は、結婚してからも、父親代わりとして、幼いきょうだいのために、母のために実家に仕送りをし、自分の奨学金を55歳まで返し続けました。おしゃべりな私と違って、大変寡黙な父でしたが、55歳のある日、『奨学金をやっと返せた。やっと…』の一言が、いまだに忘れられません。そんな苦労をしていたのか、そのとき初めて知りました」。話す古賀氏の声は涙声になる。
戦争に翻弄された家族の運命はそれだけではなかった。
(つづく)
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