「心」の雑学(15)心があるから錯覚する?〜視覚の世界から心をとらえる〜

心理学ではおなじみの

 突然だが、この図形を見たことがあるだろうか。初めて見たという人は、1つ質問に答えてみてほしい。この矢羽のついた図形の本線(中央の水平線部分)に注目したときに、本線が長く見えるのは、AとBのどちらの図形だろうか。何かを試されていると疑いたくなるかもしれないが、ここはあまり考えずに直感で決めてもらえるとありがたい。

 さて、回答は決まっただろうか。おそらく、ほとんどの人がBを選択したことと思うが、実はAとBはどちらも同じ長さである。知っていた人からすると退屈な導入になってしまったかもしれないが、初見の人には多少なり驚き、楽しんでもらえたのではないかと思う1

 この図形はミュラーリヤー図形と呼ばれ、心理学を学んだことのある人なら、必ずと言っていいほど知っている、非常に有名な教材でもある。たとえば、大学で心理学を学ぶと、ほぼ確実に心理学の実験に関する演習系の講義があり、そこでこの図形と出会うことになる。そして、いろいろなバリエーションのミュラーリヤー図形を延々と比較させられて、図形の物理的な長さと、私たちが知覚している物体の長さが一致しないという体験を、実験として繰り返すのである。先ほど皆さんにも体験してもらったように、図形の本当の長さ(物理的情報)と自分が知覚している視覚的な世界との間でズレが生じることを、心理学では「錯視」と呼ぶ。

 ミュラーリヤー図形のような錯視の現象は面白い体験ではあるのだが、なぜこの錯視を用いることで、心を研究しているといえるのだろうか。大学で心理学を学んだのだけれども、このあたりの納得感が得られないまま卒業していったという人も、なかにはいるのではないか(実はかくいう私もその1人だった2)。しかし、誰もが触れる教材として錯視が選ばれるのには、やはりそれなりの理由がある。ということで、今回はこの錯視という現象から心について考えてみたいと思う。

精神物理学と心理学

 錯視という現象を心理学的に理解するためには、「精神物理学」という学問の観点が重要となる。精神物理学とは、ごく簡単にいうと「心的体験」と「物理的な刺激」との関係を数量的に明らかにしようとする科学的アプローチである。たとえば、ある音がどれくらい大きく感じられるか、あるいはそれを段階的に大きくしていった場合に感じる音の大きさはどのように変わるのかといった、人の知覚と刺激の対応関係を測定、検討する。

 なぜ、精神物理学が重要かというと、この学問はある意味で、心理学の祖先にあたるからである。精神物理学の創始者であるグスタフ・フェヒナーは、心の動きを数量化できると考え、物理的な刺激と感覚的な印象との関係を数式で表そうとした。フェヒナーの法則では、「感覚の強さは刺激の強さの『対数(log)』に比例する」とされている。つまり、たとえば物理的な刺激の強さが10倍になったとしても、私たちの知覚や感覚の世界では、経験する刺激の強さは2倍にしか感じられない場合があることを明らかにしたのである。

 心理学が、心という基本的には観察できない対象の研究を試みるためには、この物理世界と主観的な感覚・知覚の世界のズレを検証する精神物理学の方法論が、非常に重要であった。つまり、精神物理学は、心理学が科学の学問として成立するまでの歴史を考えるうえで、欠かせない存在なのである。

 そして、錯視はこの精神物理学の枠組みのなかで、重要な役割をはたしてきた。たとえば、ミュラーリヤー錯視のように、「物理的には同じ長さなのに、主観的には違って見える」といった現象は、刺激と知覚との間にどのようなズレが生じるかを定量的に調べるための有用なツールとなる。実際、錯視がどの程度の強さで生じるのかを数値化することで、人間の知覚メカニズムの特性が明らかにされてきたのである。

錯視が教えてくれること

イメージ    ここまでで、心理学における精神物理学と錯視の重要性がみえてきた。しかし、結局のところ錯視と心の間に何の関係があるのか、と疑問に思った人もいることだろう。ここで大事なのは、錯視が単なる「視覚の誤り」を浮き彫りにする現象ではないということだ。

 私たちが見ている(物理的な)世界の視覚情報は、光刺激として眼を通して取り入れられ、その情報は網膜へと投影される。これは、カメラを通して見た映像が、パソコンのディスプレイにそのまま映し出されているというイメージに近い。従って、単純に視覚情報を処理して映すだけであれば、原理上錯視は生じないことになる。にもかかわらず、私たちには、ミュラーリヤー図形の長さが違って感じられる。だとすると、人間はただ物理的な情報をそのまま処理しているわけではない、と考えることができないだろうか。

 つまり、人間には物理的な情報と主観的な映像とにズレ(錯視)を生じさせる何かが存在していると。そう仮定したときに、この錯視が生じる原因として心を想定するというアプローチが生まれる。機械的な情報処理では生じない錯視は、まさに心の存在、働きによって生まれる現象なのだと。さらにいえば、網膜上に映る視覚情報は二次元であるにもかかわらず、私たちは世界を立体的に知覚している。こうした知覚が成立するためには、錯視につながるような心の働きによる、視覚像の補正が必要であったと考えることもできる。

 錯視は、心が私たちの知覚する世界をどのようにつくり上げているのかを明らかにするための、極めて有用な観察対象なのである。精神物理学の観点からすれば、錯視は「物理刺激(線の長さ)と主観的知覚(見え方)のズレ」を数量的に測るための手段だが、心理学における錯視の重要性は、それだけにとどまらない。錯視は、「心が存在することで、物理刺激の知覚に解釈のプロセスが生じている」という事実を、検証する手がかりを与えてくれるのである3

 図形の長さが違って見える面白い現象。人によっては、それだけのことと思うかもしれない。しかし、錯視という現象は、それ以上に多くの示唆を与えてくれる。こういったアプローチから心に迫ることができるのも、心理学の面白さの1つだと私は考えている。では、ここからさらに一歩踏み込むと、こんな疑問が浮かばないだろうか。ヒト以外の動物で錯視は起こらないのか、と。さて、続きはまた次回に。

1. もしこの図形を見たのが初めてという人は、ぜひ長さを測って比較してみてほしい。今回の図形はかなり錯覚が強めになるものを選んだが、図形の本線の長さは同じである。
2. ただし、これは当時の私の不勉強によるものであることを添えておく。
3. ちなみに錯視以外にも、音の錯覚である錯聴、触覚の錯覚である錯触といった現象がある。今回の話が面白かったらぜひこちらもチェックしてみてほしい。


<プロフィール>
須藤竜之介
(すどう・りゅうのすけ)
須藤 竜之介1989年東京都生まれ、明治学院大学、九州大学大学院システム生命科学府一貫制博士課程修了(システム生命科学博士)。専門は社会心理学や道徳心理学。環境や文脈が道徳判断に与える影響や、地域文化の持続可能性に関する研究などを行う。現職は人間環境大学総合環境学部環境情報学科講師。

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