日本文化の本質的なハイブリッド性 AIと大国のはざまで、見直され守られるべきもの
福岡大学 名誉教授
大嶋仁 氏
AIの急速な進化と国際秩序の混迷が進む現代において、日本はいかにして自らの進路を定めるべきか。本稿は、「文化を守ること」こそが日本の存在基盤であるという立場から、日本文化の本質であるハイブリッド性に着目し、その歴史的形成、現代的意義、さらにはAI時代における応用可能性までを論じる。混迷の時代を生き抜くためのヒントが、意外にも足元にあるのかもしれない。
はじめに~文化の必要
中東の紛争は拡大し、ウクライナ戦争も終結せず、トランプ大統領は何ら一貫性をもたず、現代世界は混沌とし、世界中が不安に包まれている。一方、新ローマ法王の台頭は、精神性を基にした新しい潮流を予感させている。そのようななかで、日本はどう動いたらよいのか?
また、AIの驚異的な進化で、人類はいまだかつてないほど自信を失っている。さまざまな分野で人間以上の知力を発揮するこの人工頭脳は、人間なら何年かかっても得られないような情報をわずか数秒で提供し、あるいは難問を処理する。日本はこれから、どのように、これに対処していけばよいのか?
私の立場は、「日本は日本の文化をしっかり守ること」に尽きる。明治以来、日本は己れの文化を破壊し続けてきた。もはや回復が不可能なほどに、この文化は壊れている。しかし、その破片を集めてでも、これを修復せねばなるまい。政治的な解決、経済的な解決は意味をなさない。人間は文化をつくり、それを育て、守ってこそ人間なのであるから。
1つの国民のアイデンティティーは、その国の文化によって決まる。政治形態や、経済システムによって決まるものではない。たとえば中国人の文化は、漢代から共産党支配の現在まで一貫して「漢文化」である。彼ら中国人のアイデンティティーは、漢代から続いたものであって、彼らの誇る「漢民族」とは、決して人種の概念ではなく、文化の概念なのである。
同様に、日本人のアイデンティティーは日本文化によって決まる。ところが、多くの日本人は、それがどういう文化なのか知らない。
ハイブリッド性 やまと+漢文明
多くの日本人は日本文化というと、やまと文化だと思い、そこから一切の外来的要素を排除しようとする。これは大きな間違いであって、日本文化とは列島土着のやまとと外来の漢文明とのハイブリッドなのである。日本文化から漢文明を取り除いてみたら、原始の時代そのままの文化になってしまう。そんなことであれば、西洋文明がやってきたとき、あえなく崩れ去っていたはずだ。日本文化には漢文明という外来要素が入っておればこそ、西洋文明を吸収しても、曲がりなりにやって来れた。今だって、日本人は漢字を使っているではないか。
西洋文明が入ってきて以来、急速な近代化のなかで、やまとの文化的要素も、漢文明の要素も、色あせてしまったことは事実だ。しかしそれでも、そのハイブリッド性は変わっていない。今では漢文明的要素の代わりに西洋文明的要素が表舞台に現れ、漢語のかわりにカタカナ言葉が支配的になってきている。しかし、日本文化のハイブリッド性は変わっていないのだ。
世界各地を見渡すと、日本文化のように原始時代からの土着性を失うことなく、近代的要素を取り入れてきた文化は稀だとわかる。21世紀の文明世界のなかで、古代の土着文化をかろうじて保っている文化など、簡単には見つからないのだ。そのような希少価値をもつ文化ゆえに、これを唯一無二のものと自慢する向きもあるが、それは正確ではない。日本文化の土着性は人類文化の基層にあるもので、ある意味、最も普遍的なものなのである。だから、唯一無二というよりは、人類の基本というべきなのである。
そのことは、人類学の本を見ればよくわかる。いわゆる未開社会の文化は、日本文化と基本的に同じなのだ。どうしてそうなったのか? 日本が大陸の文明圏から海によって隔てられてきたことが大きい。
この文化は新石器時代に花ひらいた文化の延長線上にある。新石器文化は自然環境に応じた道具の発達と、共同生活のための祭り、食物をおいしく食べるための料理、その料理を盛る焼き物の発達、そして「すべてに神々しさを見出す美的感覚」の発達によって特徴づけられている。いまの日本文化にも、かろうじてその残滓が見つかるのではないだろうか。
新石器人は現代を乗り切れるか?
日本文化が本質的に新石器時代的ならば、そのような文化で現代文明を乗り切れるのだろうか? それは可能であると私は答えたい。ただし、日本人が己れの原点を思い出すことができればの話だ。これができたら、日本は大丈夫だとさえ言いたい。
日本が日本として出来上がったのは7世紀である。そのとき、為政者たちは何をしたのか。外来文明を摂取し、それで武装することによって、固有の文化を保とうとしたのである。具体的には、漢字文明の導入と仏教の受容だ。これによって外壕を固め、同時に内の文化を守るシステムをつくった。大和国家はこのシステムを維持するために生まれた。
漢字も仏教もない日本を想像することができるだろうか。それほどに、この文化は外来文明に負うところが大きい。では、「日本は仏教国か? 漢字文明の国か?」と言われれば、必ずしもそうではないに違いない。日本には土着宗教を基礎とする神道があり、漢字では満足しきれないものがあって、そこから仮名という文字をつくり上げたからだ。
以上から、「日本文化=土着文化+外来文明」という公式が成り立つ。日本文化はハイブリッドなのであり、神仏習合、和漢併用、和洋折衷、西暦と元号と、その具体例を挙げればきりがないのである。
以上のことは、現在のように世界全体がどういう方向に行くのかわからない混乱期において、日本が進むべき道を自ずと示す。先にも述べたように、どのような国も、その基礎文化を見失ったら無意味な存在となってしまうだろう。日本は自らの文化を守ることを最優先すべきで、そのためには教育の大改革が必要だ。
私は、日本文化を世界に喧伝せよと言っているのではない。むしろ逆で、世界に向けて何かを発信したり、目立った行動をとったりするかわりに、じっと我慢を決め込んで、静かに己れの世界を守ることを心がけるべきだと言いたいのである。そうでないと、大国の政治戦略に巻き込まれ、元も子もないことになる。
私がこんなことをいうと、「そんなことでは日本経済は発展しない」とか、「日本はもっと国際政治における地位を向上させるべきだ」といった意見が出てくるにちがいない。しかし先にも言ったように、日本はなによりも文化を守るべきなのであって、それが失われれば、日本は日本でなくなるのだ。
人口統計学者エマニュエル・トッドは、「日本はどうすべきか?」という問いに対して、「何もしないのが良い」と答えている。日本の政治家や財界人は、これをどう思っているのだろうか。トッドがそのように言ったのは、日本は何もしなくても生き延びられると見ているからだ。その根拠はというと、日本には人的資本があるからということになる。
人的資本があるとは、日本の職業人は仕事の質が高いということで、これは仕事をするための基本技能が高いことを示す。アメリカなどは、トランプがいくら「アメリカ・ファースト」を叫ぼうと、人的資本は乏しいのである。この人的資本は、それこそが文化財である。仕事に付加価値を与え、仕事を創造的なものにするのは、文化のなせるわざなのだ。そこには、経済的利益や政治的利益が入り込む余地はない。
大国に挟まれても
現在の日本は、アメリカと中国という巨大な二国のあいだにあって、ほとんど身動きがとれない。この2つの大国の力関係がそのまま日本に反映しており、日本はどうすべきか、判断が極めて難しい状況だ。いうまでもなく、ここで積極的に表舞台に立とうとすれば、たちまちに吹き飛ばされ、歴史の大潮流に飲み込まれてしまう。だから、できるだけ嵐から身を守り、ひっそりとしているに越したことはない。
だが、その一方で、眼は常に世界に開かれていなければならない。台風情報をまめに追うのと同じように、世界のあちこちの動きをしっかり観察していなくてはならないのである。そのためには、欧米のメディアに頼っていてはいけない。インターネット上のさまざまなメディアを活用し、中東、ロシア、中国、インドの情報をできる限り集める必要がある。そうして得た地球レベルでの情報の流れのなかで、自分たちはどの辺に位置すべきか、それを模索しておかねばならない。
ついでながらいうと、そうした情報を集める道具として、コンピューターのほかに高度な英語力が必要だ。世界中の多くの情報が、英語さえわかれば得られるのだから。私は「高度な英語力」とあえていう。海外のニュースが理解できるだけの英語力がなければ、自分たちの文化を守れない、と言いたいのである。江戸時代の武士階級が、高度な漢文を読めたことを思い出してほしい。明治の知識人は、漢文の素養があったからこそ、難解な英書をも読みこなすことができたのだ。
先にも述べたが、日本は中国とアメリカの両方に挟まれている。しかも、日本はアメリカの軍事基地の役割をはたしているから、中国との政治関係は敵対関係とならざるを得ない。しかしながら、アメリカ在住の国際政治評論家の伊藤貫がいうように、アメリカは日本を守ろうとして基地を置いているわけではなく、アジア支配の戦略的観点から日本を利用しているだけなのである。アメリカを友好国とみなすことは、戦後日本が生み出した虚偽である。
一方、中国は日本と政治システムも異なり、厄介な相手だ。しかし、中国なしに日本の産業経済は成り立たないし、私たちの日常生活もままならない。中国にすれば、日本の高度な技術は必要なものであり、中国の中流以上は中国製の品よりは日本製を買うのが常識となっている。このような中国と疎遠になるわけにはいかないのである。まして、日本文化のかなりの部分に漢文明が入り込んでいる。となれば、好むと好まざるとに関わらず、友好関係を維持するほかない。
名よりは実をとる。これが日本の進むべき道だ。アメリカとの関係は、表向きは今までどおりにし、内心は懐疑の眼をもって接する。一方の中国とは、もっぱら実利主義で付き合っていくのが良いのである。
AIの脅威への対処法
さて、現代文明はAIが急速に発達し、「人知」を凌がんばかりとなっている。この危機を前に、日本はどうすべきだろうか。
先にはっきりさせておきたいのは、AIが人知をしのぐといっても、それは数理的能力に限ってということだ。AIがアルゴリズムに依拠する以上、そうならざるを得ないのである。人知にはさまざまな面があり、数理能力ばかりが人知ではない。このことを見誤ると、AIを過大評価してしまうことになる。
AI時代の日本人の生き方の模範は、将棋のエース羽生善治が示しているように思う。羽生はほかのプロ棋士同様、AIと対局することで腕を磨いてきたのだが、将棋仲間と談笑したりしているときに、むしろ「閃き」があると言っている。AIは大いに活用すべきだが、それに埋没していてはダメで、人と付き合い、AIとの付き合いでは得られない「馬鹿げた時間」をもつことが大切だと言っているのである。AIは馬鹿になることを知らないのだ。
日本文化はハイブリッドで、文明と土着文化の併用だと述べてきたが、この原理をAI使用にも応用できる。すなわち、AIを便利な道具として活用し、それによって得られない部分を、手仕事とか、身体能力を高めるスポーツとか、なにより人々との談笑によって補うのだ。このやり方は、日本古来の文化のハイブリッド性を保つことにつながる。精神は不安定にならず、AI活用を楽しむ余裕をもつことができる。
「AIは恐ろしい」と言っている人を時々見かける。AIを使っていると、病みつきになるから怖いのだそうだ。そうなると、AIは知的活動における麻薬である。この危険を回避するにも、日本文化のハイブリッド性が役立つのだ。ハイブリッド性は、「何か1つのことに頼りきらない精神」を育てる。
日本文化のハイブリッド性は、その根底に多神教があることを示している。AIはそういう文化においては「新たな神」なのである。それは在来の神々より上位に置かれるわけではない。神は神として崇められるだろうが、それは時と場所によって限定されているのである。
逆に、一神教的世界におけるほうがAIは怖い存在となる。日本人はその文化を見失わないかぎり、AIを恐れることはない。
<PROFILE>
大嶋仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。福岡大学名誉教授。からつ塾運営委員。東京大学で倫理学、同大学院で比較文学比較文化を修め、静岡大学、カトリック大学・ブエノス=アイレス大学(ペルー)、パリ国立東洋言語文化研究所を経て、95年から2015年まで福岡大学にて比較文学を講じた。最近の関心は科学と文学の関係、および日本文化論。著書に『科学と詩の架橋』(石風社)、『生きた言語とは何か』(弦書房)、『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書)、『森を見よ、そして木を』(弦書房)などがある。