新しい時代の始まり(前)隅っこ暮らし

福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

夜明け イメージ    長いあいだ私は文化について考えてきた。人類の文化を念頭に置き、日本文化はどういう文化なのだろうと考えてきたのである。そして、ひとたびその文化の本質が見えてくると、その本質が歴史のなかでゆらぎ、しまいには崩れかかっていることに気づいた。このままではこの文化は滅びる、そう思うようになったのである。

 世界にはすでに滅び去った文化が多くある。たとえば、北アメリカの先住民文化がそうで、西欧からやってきた白人の文明に押し潰され、いまやほとんど面影もない。日本の場合は早くから中華文明に接し、そこから自衛のための武器を摂取したことで、さまざまな歴史の波をくぐってきた。しかし、根底にあるのは北米先住民文化と共通するものであるから、この文化が現代文明の波をくぐり抜けることができるとは限らないのである。

 そもそも私の文化論は、日本文化と北米先住民文化の共通性を追究することから始まった。すでに50年が経つのだが、到達した結論は、両者がともに「神話的な世界」を守ろうとする文化だということだ。ではその神話の本質はなにかというと、「生命讃歌」ということになる。人と動物と植物が共存できる神話世界であり、これを尊ぶ世界観が、日本文化の根底にもあるのだ。

 この観点からすると、明治時代を境にその世界観が崩れ、崩れに崩れて現在に至っていることが見えてくる。明治時代になって西欧文明に押し潰されそうになったその恐怖から、日本は自らを西欧化すれば生き延びられるという信念をもつようになり、それに成功するにつれて己れの文化の根底を突き崩してきたのである。

 いかなる社会も存続を目指すものではあるが、そのために犠牲にするものが己れの本質であったとなれば、ある種の自殺行為にほかならない。明治以降の日本は、私に言わせれば文化的な自殺を遂行してきたということになる。

 実はそうした思いから、今年5月に『日本文化は絶滅するのか』という本を出した。タイトルは版元の意向によるが、私にすれば『絶滅した文化、日本』といったところである。いま読み返して思うのは、一種の悲観が底流にあることだ。

 この悲観はどこから来るのかといえば、今の日本が数十年前と比べて元気がなく、ずるずると奈落の底へ降下していっていると実感されるからだ。社会を支えるモラルがなくなり、人と人を結ぶ共通項が消え、表向きは平穏でも心が萎えている。この実感は、おそらく私1人のものではない。

 しかしながら、そのように見てしまうこと自体、正しくないのかもしれない。何かが落ちていくとき、別のものが上昇しているはずだ。私はそれに気づいていないのではないかと思うようにもなった。

 とはいえ、私より若い世代の人たちが私とは別の価値観を主張し、それによって時代が変わっていくことが示され、「自分はもう時代遅れなのだ」と悟らされる日はなかなか来ない。それゆえ、時として「自分のほうが彼らより若いのではないのか」などと傲慢な思いにとらわれるのである。

 多分、社会全体が退潮期に入っているのだ。しかもそれは、しばらく続くように思われる。しかし、もしそうならば、その後にはきっと「上げ潮期」が来る。時が経てば、この社会は再び活性化し、失われた文化が戻ってくるかもしれない。

 しかしこれは、希望的観測というよりは非現実的な夢想であろう。一度失われたものは二度と還って来ず、何か別のものが生まれ出るのに違いない。

 今の日本を反映するものがある。若者が好む「キャラクター」である。たとえば、「すみっコぐらし」と呼ばれる動物キャラクターの一団が人気があるようだ。ほかにもキャラクターがあり、人によって好みはちがうのだろうが、私にはこの「すみっコぐらし」が気になってならない。

 「すみっコぐらし」は隅っこに住むのを好む生きものの集団を意味する。一説によれば、コンプレックスを抱えている若者たちを表しているのだそうだ。だが、実際にはポジティブな存在も仲間入りしているようだから、隅っこを好むのは性格の問題ではなく、好みの問題ということになる。

 私にとって面白いのは、このキャラクター集団が「引きこもり」とは違う点だ。世の中の波は厳しすぎる、世界の潮流は激しすぎる、そういうなかで生き延びるには「歴史の隅っこ」にいたほうが良い、と暗黙のうちに考えているように見える。しかも、彼らは1人ぼっちではない。それなりに楽しそうだ。現代の若者は、そういう思想に落ち着こうとしているのだろうか。

 「すみっコぐらし」だけが現代の若者を代弁しているわけでない。中央にしゃしゃり出たいという強い願望もあるにちがいない。しかし、そうした願望が極端な暴力になって表れるよりは、「すみっコ」で暮らすほうがはるかによいだろう。

 問題は、それがどのくらいもつかだ。一時的には機能するだろうが、長もちはすまい。

(つづく)


<PROFILE>
大嶋仁
(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。福岡大学名誉教授。からつ塾運営委員。東京大学で倫理学、同大学院で比較文学比較文化を修め、静岡大学、カトリック大学・ブエノス=アイレス大学(ペルー)、パリ国立東洋言語文化研究所を経て、95年から2015年まで福岡大学にて比較文学を講じた。最近の関心は科学と文学の関係、および日本文化論。著書に『科学と詩の架橋』(石風社)、『生きた言語とは何か』(弦書房)、『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書)、『森を見よ、そして木を』(弦書房)などがある。

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