福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏
50年ものあいだ日本文化に執心してきた。執心は仏教でいう「執着」であり、よいことではない。仮にも日本文化が崩壊しているなら、いま目前にあるのはその形骸にすぎないだろう。その形骸を哀惜したとて、なんの意味もない。
だいぶ前、『男たちの挽歌』という香港ヤクザ映画のシリーズにハマったことがある。このシリーズの何本目かは覚えていないが、あるとき香港を取り仕切っていたヤクザの親分が、その娘を新興の暴力団に誘拐されるという事件があった。やがて娘の死体がドブ川に浮かび、それを見た親分はすっかり元気をなくし家に引きこもる。結果、新興暴力団が香港のボスの座につくのである。
これを見かねた子分たちが、ある日親分を訪れてみると、親分は死んだ娘の肖像写真にしがみつき、飯もろくに食べていなかった。子分たちはただちに親分の手からその写真を奪いとり、その場でずたずたに破ってみせる。そして親分に、「いつまでも過去にしがみついていないで、この悔しさをはらそうではありませんか」と復讐を促すのだ。
やがて親分は子分たちと復讐をはたすことになるのだが、子分たちが親分の手から、死んだ娘の肖像を奪い取って破り捨てる場面が忘れられない。人間、過去の幻影に取りつかれてはならず、前を向いて進まねばならないということだ。
私が長年相手にしてきた日本文化も、それが過去の幻影となってしまったならば、いつまでもしがみつくわけにはいかない。幻影は捨て去って、前に進むほかないのだ。長年あたためてきた文化論は、この辺で終わりにしよう。
近代日本史を考えたい。システムに対する「外圧」と、システムがそれに耐え得る「限界点」という観点から見直してみたい。
ペリー来航という外圧は徳川鎖国システムの限界点を示した。1937年の日華事変は、欧米勢力の外圧に対する大日本帝国の限界点を示すものだった。この限界点を突破しようとして中国との戦争を開始し、それが予想通りに運ばなかったことから、今度はアメリカと対決し、「南方」へと戦争を拡大することになる。その結果、システムが完全に機能しなくなった。
あらゆるシステムは、外圧があると限界点に達する。にもかかわらず同じシステムで突き進もうとすれば、必ず空中分解する。41年以降の日本はそのよい例だ。
戦後はというと、アメリカの指導のもとで新システムが機能してきたかに見える。しかし、古いシステムの残滓があって、昭和が終わるころにはすでに機能障害を起こしている。¬その状態がいまだに続き、いまや限界点に達している。
米ソ対立から米中対立へと国際情勢が移るなか、外圧の質は変わった。しかし、量的に減ったわけではない。今の日本は動きが極めて鈍いが、この鈍さはシステムが限界点に達していることを示している。
アジアからの移民が増えているのは、日本システムが限界に達していることの証左である。海外から仕事を求めてやってくる人が増えるということは、日本の産業界の需要を満たすものであるかぎり歓迎すべきものであろう。しかし、参政党のように排外主義に立つ者も目立つ。現実を見ないで、自らの首を絞める人々も増えているのだ。
思い出すのは、2年前ある寿司屋で会った不思議な紳士である。私が板前さんと楽しく話していたら、すぐ隣に大柄の紳士が陣取り、なんの衒(てら)いもなく気楽に話しかけてきた。
話が弾んでいるところ、その紳士のポケットで携帯が鳴る。紳士はすっくと立ち上がり、大きな図体を揺らせながら心地よいほど流暢な外国語で話しはじめた。その言葉はフィリピンかタイかベトナムのものだったと思う。何を言っているのか皆目わからなかった。話し終えると、「ちょっとビジネスのことで」と笑う。
私と波長が合うと思ったのか、紳士はビールを飲みながら日本の労働事情について詳しく説明してくれた。九州の各都市の労働状況をよく把握しており、5年後には熊本県の労働人口が30%減少するので、数万人の移民が必要となるなどと言っていた。政府や自治体の悪口を言っていたから、役人ではなかった。相当の財力があるようで、タイに民間日本語学校をつくったと言っていた。来るべき移民の養成をしているのだそうだ。
彼の言葉には説得力があった。東南アジアの言語に堪能で、現地の人の心をつかんでいるようにも見えた。慈善家とはちがい、本格的なビジネスマンと見受けられた。そのビジネスがなんであれ、頼もしい感じがした。
この紳士のように日本システムの限界点に気づき、先を見据えることのできる人もいる。メディアはこういう人の声をもっと取り上げなくてはなるまい。総じて日本のメディアは勉強不足だと思う。国民が新しい方向を向かねばならないときに、一向に動こうとしていないのだ。これは大いに反省せねばならない。次回は移民問題の話をしようと思う。
(つづく)
<PROFILE>
大嶋仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。福岡大学名誉教授。からつ塾運営委員。東京大学で倫理学、同大学院で比較文学比較文化を修め、静岡大学、カトリック大学・ブエノス=アイレス大学(ペルー)、パリ国立東洋言語文化研究所を経て、95年から2015年まで福岡大学にて比較文学を講じた。最近の関心は科学と文学の関係、および日本文化論。著書に『科学と詩の架橋』(石風社)、『生きた言語とは何か』(弦書房)、『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書)、『森を見よ、そして木を』(弦書房)などがある。