ノーベル生理学・医学賞受賞 坂口志文氏の「制御性T細胞」発見は人間理解を変えた
6日、2025年のノーベル生理学・医学賞について、大阪大学特任教授の坂口志文氏に授与されることが発表された。坂口氏の受賞は、免疫系において過剰な反応を抑える「制御性T細胞」の発見という、免疫学における画期的な業績が高く評価されたものだ。
今回の受賞により、坂口氏は本庶佑氏(18年)以来7年ぶり6人目となる日本人の同賞受賞者となった。
「制御性T細胞」とは何か
「制御性T細胞」(Regulatory T cells; Treg)とは、私たちの体を病原体から守る免疫システムで「ブレーキ役」を担う重要なリンパ球だ。
免疫システムは、体内に侵入した細菌やウイルス、あるいはがん細胞といった「非自己」を発見して攻撃する機能をはたすが、時として過剰に働きすぎたり、誤って自身の正常な細胞を攻撃したりすることがある。
制御性T細胞は、このような過剰な免疫反応や、自己を攻撃する暴走を防いで、免疫システム全体の働きを抑制するのに不可欠な役割を担っている。
坂口氏は、この制御性T細胞が免疫抑制機能をもつこと、そしてその発生・機能に転写因子「Foxp3」が必須の「マスター転写因子」として機能することを世界に先駆けて解明した。
自己免疫疾患・アレルギーの治療
制御性T細胞の機能が弱まったり、数が減ったりすると、免疫のブレーキが効かなくなり、免疫細胞が自分の体を攻撃する。その結果、I型糖尿病、関節リウマチ、多発性硬化症、潰瘍性大腸炎といった自己免疫疾患や、アレルギーを発症する。
これを治療する方法として現在、制御性T細胞を体外で増やして患者の体内に戻す細胞療法など、この細胞を標的とした根本的な治療法の開発が進められている。
たとえば、がん細胞は制御性T細胞の働きを巧みに利用して免疫の攻撃から逃れ、人の体を蝕む。これへの対処として、制御性T細胞の機能解明を通して、がんを攻撃する免疫細胞(エフェクターT細胞)の働きを強める新しいがん免疫療法の開発が進められている。
また、臓器移植が行われる場合に問題となるのは、移植された臓器を「非自己」と認識して攻撃してしまう拒絶反応だ。この反応をおさえるためにも制御性T細胞の応用研究がすすめられている。
免疫学が変えた生命観:自己と他者を超えて共存する世界へ
坂口氏による「制御性T細胞」(Treg)の発見は、免疫医療や新薬開発に計り知れない進歩をもたらした。だが、影響はそれだけにとどまらなかったと思われる。Tregの発見をはじめとした免疫学の進歩は、私たち日常の裏側で絶えず作動している免疫システムの奥深さと、その絶妙なバランスの重要性を私たちに教えた。それは生命とは何かという、人間の自己認識にも大きな影響を与えた。
近代以降の人体観の基調となっていた、いわゆる「デカルト的人間観」は、人間を「身体=機械」「心=理性」に分離し、機械としての身体は部品の集合体として位置づけた。この機械論的身体観は、人体に対する倫理的な縛りから人間を解放して、人体を冷徹に物質と見なすことで、近代医学の発展に大きな影響を与えた。そこでは人体の治療とは、外部からの侵入物や外的要因で生じた欠陥を手術(修理)すれば正常化するという発想であり、その方向性が技術開発を推し進める大きな力となった。
だが20世紀後半以降の免疫学の進歩は、このモデルを大きく転換する方向へ導いた。すなわち人体の防衛システムとして機能する「免疫」とは、単なる外的異物や要因への攻撃(排除)のシステムではなく、「攻撃」と「抑制」が常に拮抗し、相互調整するネットワークとして生命を維持しているという発見だ。そこでは、Tregが司る「抑制=静止=受容」は単なる消極的な要素ではなく、生命の維持に不可欠な能動的プロセスとして理解されるようになった。
デカルト的人間観として理解されていたように、人体は一見して、まるで機械のように外部からエネルギーさえ補給すれば、それだけで自立できる生命体であるように見える。しかし、免疫学が明らかにした生命とは、実は自己保存の機能だけでなく自分自身をも攻撃する機能を内包しており、同時にまったく別の生命体である腸内細菌叢や共生ウイルスらも内部に共生した存在であって、それら自己のなかにあるさまざまな他者との絶妙なバランスの上で生命を維持しているという姿だった。
生命がバランスの上に成り立つという考え方は、中医学の世界では伝統的なものだった。免疫学の進歩は、一方で中医学の思想と共鳴しつつ、それまで異物排除の思想が支配的であった西洋由来の近代的な自己同一性という観念に大きな疑問符を投げかけた。そして、内と外に分断されていた生命(自己)と世界(外界)の関係性を転換し、生命現象を従来の生物学の枠を超えてシステム論や複雑系の視点から捉え直すことで、現代科学の新たな地平を切り拓いたといえる。
【寺村朋輝】