【異色の芸術家・中島氏(34)】アトリエメモランダム「善悪を知る樹」

 福岡市在住の異色の芸術家、劇団エーテル主宰の中島淳一氏。本人による作品紹介を共有する。

善悪を知る樹
善悪を知る樹

 この絵の「樹」は、枝葉を広げる生命体としてではなく、大地を裂く傷口のような垂直性として立ち現れている。金色に輝く部分は光でありながら、祝福というよりも火傷の痕に近い。暗黒と暗黒のあいだを貫くその閃光は、人類が「知ってしまった」瞬間に生じた不可逆の亀裂である。善と悪は対立する概念ではなく、同じ裂け目から滲み出る二つの流体のように混じり合っている。赤は血であり、熟した果実であり、罪の熱であり、そして同時に目覚めの色である。

 神秘学の視点において、「善悪を知る」とは単なる道徳的判断能力の獲得ではない。それは、二元性の世界へ降下するための点火である。この作品の質感は、岩のようであり、樹皮のようでもあり、地層のようでもある。この曖昧さは、存在がまだ形を定めきれない原初的状態を示している。ここでの樹は、上へ伸びる世界樹(セフィロト的上昇)ではなく、意識が物質へ沈降する通路として描かれている。黄金は神性の象徴であると同時に、錬金術における「完成」を意味する。しかし、この作品の黄金は完成ではなく、変容の最中で燃え上がる未完の光だ。この樹は「堕落」ではなく、魂が自らを知るために選んだ危険な火なのである。

 『創世記』において、善悪を知る樹は、神が禁じた対象として語られる。しかしこの絵は、その禁忌を道徳的失敗として描いてはいない。むしろ、神は姿を見せず、裁きも、声も、不在だ。あるのは、人間が自由を引き受けてしまった沈黙の瞬間である。赤く滲む色は「原罪」の象徴であると同時に、キリストの血を先取りする色でもある。即ちこの樹は、十字架以前の十字架、贖罪以前の選択なのである。神学的に見れば、この作品は「人間はなぜ救済を必要とする存在になったのか」を、裁きではなく存在論的必然として提示している。

 哲学的に「善悪を知る」とは、世界を無垢な全体として見る能力を失うことだ。一度知ってしまえば、もはや戻ることはできない。この作品の構図は、左右に引き裂かれた空間と、それを分断する一本の垂直線によって、認識の不可逆性を視覚化している。この樹は媒介である。自然と意識、無垢と反省、存在と意味のあいだに立つ「裂け目としての媒介」だ。この絵は「人間とは何か」ではなく、「人間になってしまったとはどういうことか」を問う作品である。

 最大の強度は、「樹」を樹として描いていない点にある。具象を拒否し、神話的象徴を物質の痕跡へと還元することで、観る者の内面に神話を再生成させる。荒々しいマチエール、重ねられた絵具の地層、偶然性を孕んだ表面は、計画された象徴ではなく、生成の記録として機能している。宗教画でも、抽象画でもなく、「存在論的記憶装置」と呼ぶべき作品だ。この樹は、外に立ってはいない。《善悪を知る樹》は、楽園の中央に立つ他者ではない。私たちの内部に立っている樹である。知ってしまったこと、選んでしまったこと、引き返せなくなったこと。そのすべてを引き受けてなお、人は光を探す。この作品は、その探し続ける姿勢そのものを、沈黙のうちに肯定している。

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