一式見積の禁止で「適正な支払」へ 標準労務費の運用開始&取適法施行

 建設業界は今、長年続いてきた取引慣行を根底から問い直されている。改正建設業法に基づく「標準労務費」制度の全面施行と、下請代金支払遅延等防止法(以下、下請法)を抜本的に改めた「中小受託取引適正化法」(以下、取適法)の施行という、2つの制度改革が同時進行しているためだ。いずれも賃金ダンピングや一方的な取引条件の押し付けを是正し、適正な価格形成と人材確保を実現することを目的とするが、建設業にとっては単なる規制強化にとどまらない。見積、契約、支払い、価格交渉といった取引の全工程を再設計することを意味し、元請・下請を問わず、経営の在り方そのものが問われる局面に入った。

最低労務費を法制化

 2025年12月12日、改正建設業法が全面施行され、建設工事の請負契約において最低限確保すべき労務費を示す「標準労務費」制度が本格的に動き出した。これは、見積や契約時に基準額を下回る設定を禁止する新ルールであり、技能労働者の処遇改善、原価を反映した適正価格形成、不当に安い入札・契約の排除を狙う。

 これまで公共工事では、国や自治体が発注者として設計労務単価を用い、一定の賃金水準を確保する努力を重ねてきた。しかし、その多くは参考指標の域を出ず、民間工事では人件費に関する公的な基準がほとんど存在しなかった。その結果、価格競争が激化する局面では、人件費が最も削りやすいコストとして圧縮され、技能者の賃金は抑え込まれてきた。

 標準労務費はこの構造を是正するため、公共・民間を問わず、元請・下請を含むすべての建設工事契約に適用される「最低基準」として法制化された点に、最大の意義がある。基準を下回る契約は行政指導や勧告の対象となり、悪質な違反が続けば建設業許可の取消しなど、厳しい処分につながる可能性がある。もはや努力目標ではなく、取引の前提条件である。

 もっとも、標準労務費制度の運用をめぐっては、現場で戸惑いも見られる。標準労務費は、価格交渉時の相場観として中央建設業審議会が考え方を示したものだが、職種ごとの具体的な金額は国土交通省が算定する仕組みである。当初25職種を対象とした基準値は、26年1月時点で13職種のみ公表され、残る職種は未整備の状態だ。公表済み職種は基準値を前提に、未公表職種は既存の設計労務単価などを参考に対応する必要があり、元請・下請ともに制度趣旨を踏まえた慎重な見積・契約対応が求められている。

賃金停滞の悪循環

イメージ    制度導入の背景には、建設業界が長年抱えてきた深刻な人材問題がある。技能者数は長期的に減少し、高齢化が進む一方、若年入職者は伸び悩んでいる。賃金水準は全産業平均と比べても低く、長時間労働や厳しい作業環境に対して「見合わない」との認識が広がってきた。

 従来の請負構造では、受注競争が激化するたびに工事代金が切り下げられ、そのしわ寄せとして人件費が削られる構造が常態化していた。さらに近年は、資材価格やエネルギーコストの高騰が重なり、人件費圧縮は一層深刻化。その結果、賃金停滞→人材流出→生産性低下→さらなるコスト圧力という悪循環が固定化しつつあった。

 国が「最低限守るべき労務費」を制度化したのは、この悪循環を断ち切る狙いがある。適正な賃金を確保しなければ人は集まらず、結果として施工品質の低下や事故リスクの増大を招く。標準労務費は、人材確保と産業の持続性を守るための“安全装置”として位置付けられている。

見積契約を再設計

 標準労務費は、国土交通省が公表する公共工事設計労務単価を基礎に、工種ごとの歩掛などを踏まえて算定される。各工種で通常必要とされる作業時間に、公定の賃金単価を掛け合わせた「適正人件費」を基準化したものだ。国は職種・作業ごとの基準値を示し、今後も単価改定に合わせて更新していく方針で、制度周知にも力を入れている。

 現場実務で最も影響を受けるのは、見積と契約管理である。第一に、見積書・契約書の見直しが不可欠となる。労務費の内訳を明確にし、材料費や経費と区別して、基準を下回らない金額を計上しなければならない。従来のように「一式」で処理する見積は、説明責任の観点からも見直しを迫られる。

 第二に、下請契約への徹底である。制度はすべての取引段階に適用されるため、元請は協力会社に周知し、見積依頼の時点から標準労務費を織り込んだ提示を促す必要がある。元請だけが守っても、下流で基準を下回れば制度の趣旨は達成されない。

 第三に、社内教育とチェック体制の整備だ。営業、積算、現場管理といった関係部署が基準と違反リスクを共有し、見積査定での逸脱を防ぐ仕組みを構築しなければならない。属人的な判断に依存せず、誰が積算しても基準を下回らない体制づくりが求められる。

 さらに、民間発注者への説明も重要となる。標準労務費は法律上の基準であり、「今回は厳しいから人件費を削れ」といった慣行は通用しにくくなる。客観的根拠を示し、適正な価格形成への理解を得るための交渉力が、元請企業の重要な経営能力となる。加えて、技能者への適正賃金支払いの努力義務も意識したい。確保した労務費が現場の賃金として適正に支払われるかが制度の成否を左右するため、元請が下請の支払い状況を確認する運用も重要になる。

価格は過程も規制対象に

 こうした標準労務費の動きと並行して、26年1月に施行されたのが取適法である。取適法は、下請法を大幅に改正し、企業間取引のルールを再設計する制度だ。最大の特徴は、価格の「結果」だけでなく、協議に至る「過程」や支払方法までを明確に規制対象とした点にある。

 従来の下請法は、支払遅延や買い叩きといった不当行為を禁止することで、中小事業者を保護してきた。しかし、原材料費や人件費の高騰が続くなかでも価格転嫁は十分に進まず、形式上は違法でなくとも、実質的には一方的な価格決定が行われる取引が横行していた。交渉の余地が与えられないまま、条件が固定されるケースも少なくなかった。

 こうした状況を踏まえ、取適法は「結果としての不当価格」だけでなく、「価格決定に至るプロセス」そのものにも踏み込んだ点が最大の特徴である。中小受託事業者から価格協議の求めがあったにもかかわらず協議に応じない、あるいは十分な説明を行わないまま一方的に代金を決定する行為は、明確に禁止された。価格の水準だけでなく、「どのような経緯で決めたか」という過程そのものが、法令遵守の対象となったのである。

 象徴的なのが、法律名称および用語の変更だ。従来の下請法で用いられてきた「元請(親事業者)」「下請」といった上下関係を想起させる表現は改められ、取適法では「委託事業者」「中小受託事業者」という用語が採用された。これは単なる言い換えではない。発注側が優越的地位にあることを前提とした取引観から、対等な契約当事者として協議・説明責任をはたすべき存在へと、位置付けを転換する制度的メッセージといえる。

支払条件を厳格化

 取適法は、支払条件についても大きな転換をもたらした。物品や役務の受領日から60日以内に代金を支払うことが原則とされ、手形や、実質的に現金化が遅れる電子記録債権などは、原則として禁止された。これまでは受領日から現金受領まで120日以上を要するケースも珍しくなかったが、改正後はこうした支払慣行は許されない。

 加えて、発注内容の明示義務や、取引記録の作成・保存義務、支払遅延時の遅延利息(年率14.6%)の支払い義務など、委託事業者に課される責務は大幅に拡充された。違反が確認されれば、公正取引委員会による勧告や企業名公表といった行政措置の対象となる。

 取適法が建設業界に突きつけているのは、「慣行だから許される」という発想の終焉である。価格交渉に応じる姿勢、説明責任、支払条件の透明性―そのいずれもが企業のコンプライアンスと経営姿勢そのものとして、問われる時代に入った。

委託事業者の「11の禁止行為」一覧

人に投資する産業へ

 標準労務費と取適法は、別々の法律でありながら、共通の方向性をもつ。それは、「安さ優先」「慣行任せ」の取引からの脱却である。賃金を削って価格競争に勝つ時代は終わり、適正な人件費を前提に、品質、技術力、生産性で競う市場へ移行できるかが問われている。

 両制度は、短期的にはコスト増要因として映るかもしれない。しかし、賃金の底上げと人材定着が進めば、生産性向上や技術継承につながり、長期的には企業価値を高める可能性がある。重要なのは、法令対応にとどまらず、取引慣行そのものを見直すことである。

 元請・下請ともに、見積、契約、支払い、価格交渉の全工程を再点検し、公正で透明性の高い取引を実装できるか──。標準労務費と取適法は、建設業界に対して「人に投資する産業」への転換を迫る試金石である。

【内山義之】

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