『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏
小学館「マンガワン」事件は、一出版社の問題ではなく、マンガ王国をつくっている大手出版社のマンガづくりが岐路に立っている象徴だと、私は考えている。
「のらくろ」と小野田寛郎が示した漫画の影響力
私は編集者としてはカタワである。こういう言葉を今の時代で使うのは差別になっていけないと思うのだが、我々の世代ではよく使われていたのでお許しいただきたい。
私が入社した講談社という出版社は、総合出版社と謳っており、辞書、百科事典から楽しい幼稚園まで、あらゆるジャンルの本や雑誌を出していた。
マンガは「漫画」といわれていた戦前から出していて、田河水泡による漫画『のらくろ』は、1931年から講談社の「少年倶楽部」で連載されていた。黒犬の主人公が軍隊で奮闘・出世する「のらくろ二等兵」は、戦前の少年たちを熱狂させた。
私は、「のらくろ」というと、戦後29年目の1974年3月、フィリピンのジャングルから生還した小野田寛郎旧陸軍少尉のことが思い出される。
私は、その前年だったと思うが、週刊現代のプラン会議で「フィリピンのルバング島に日本人が、いまだに潜んでいる」というプランを出した。
編集長は川鍋孝文。後に講談社を離れて「日刊ゲンダイ」を創刊する伝説的編集長である。
だが、川鍋は「元木、これってほんとかよ?」と疑わしげに聞いた。
私はたしかな情報源からだと答えたが、結局、その企画はボツになった。だが、それからわずか1カ月後、フィリピンに日本兵がいるという報道が流れた。74年2月、当時24歳だった鈴木紀夫がルバング島で小野田を発見、救出した。
日本に帰ってくると小野田人気が沸騰し、手記を取ろうと多くのメディアが殺到した。そのなかで最後に残ったのが講談社と朝日新聞だった。そのころの新聞の力は強く、ほぼ、朝日と思われていたが、逆転したのは、小野田のこのひと言だった。
「私は戦前、講談社ののらくろが大好きだった」
こうして、小野田の手記が週刊現代で始まった。私は、漫画の力の大きさを初めて知ったのである。
「巨人の星」「あしたのジョー」と少年漫画黄金期
少年マガジンが講談社から創刊されたのは59年(同じ日に小学館から少年サンデーが創刊されている)。それから9年遅れで集英社から少年ジャンプが創刊された。
私が早稲田大学の学生時代、カネがなくて雑誌など買えないから、大学近くの喫茶店に入り浸り、平凡パンチや少年マガジン、少年サンデーを、それこそ貪るように読んだものだった。
少年マガジンで「巨人の星」の連載が始まったのは1966年4月からで、「あしたのジョー」は1968年1月1日号からだった。
私は野球少年だったから、星飛雄馬を自分に重ね、矢吹丈と力石徹との死力を尽くした死闘と友情に涙した。
次が読みたくて、発売日になると授業などには行かず、喫茶店にこもって読みふけった。私は、この2つの連載を読みたくて講談社に入ったといってもいい。社員になれば、発売前のマガジンが読めるはずだ、そう思ったのだ。
だが、入ってみると、社内でも読めるのはごくわずかな部署で、私が配属された「月刊現代」には回ってこないことを知ってガックリしたことを憶えている。
講談社で「力石徹の葬儀(告別式)」が執り行われたのは、70年3月24日だったと記憶している。
まだ入社前だったが、前代未聞のこの葬儀には多くの漫画ファンが押し寄せるため、私にも招集がかかった。だが、社内の廊下で見張り番をしているだけで、式を直接見ることはできなかったのが残念だった。
そのすぐ後の3月31日。赤軍派の連中が「よど号」をハイジャックして、北朝鮮へ向かった。
そのとき彼らが残した声明文のなかに、「我々はあしたのジョーである」という言葉があった。それが何を意味するのか判然としないが、時代の空気をよく表していた「名台詞」であった。
当時のマガジン編集長は内田勝。内田は、「漫画1ページには1万語の情報が入っている」と、社内で語っていたと記憶している。
何をバカなことをと、私は思った。
凄惨な描写や衝撃的な内容が議論を呼び、一部の自治体で有害図書として指定されるなど、社会的に非常に大きな波紋を広げたジョージ秋山の「アシュラ」の顔は内田がモデルだといわれていた。
その内田が、少年マガジン編集長から、私のいた「月刊現代」の編集長になったのは71年だった。
これがあのアシュラの内田かと、彼の顔をしげしげと見た。やや似たところはあったが、漫画とは違って、よくしゃべる面白い人だった。
最初の編集会議で内田は、「僕は会社に3億円儲けさせたから、現代にはいつまでいてもいいんだ」と語った。
物事をじっくり考え、それを周囲にいる編集者に聞かせたがった。つかまると2~3時間は付き合わされるので、なるべく編集長には近づかないように、朝、編集部に顔を出すと黒板に「銀座、赤坂、六本木」と、その頃流行っていた森進一の「港町ブルース」のフレーズを書いて、逃げ出したものだった。
その内田も1年で、部数低迷の責任を取らされてマンガ編集部に戻ってしまった。やはり、どんなに優秀な漫画編集者であっても、現代のような雑誌には合わなかったのだろう。我々のやり方は「見る前に跳べ」である。内田のように物事を突き詰めて考えてから行動を起こすという“文化”がない。地頭のいい人だったが、考えすぎてしまうのが、現代に合わなかったのだろう。
もう2、3年やっていたら……違った現代をつくったのではなかったか。本人も残念だっただろう。
私の漫画体験は、巨人とジョーで終わっている。宮崎駿のアニメは何本か見てはいる。最近ではテレビで放送していた「鬼滅の刃」も第2話まで見たが、面白くないのでやめてしまった。
漫画家と編集者がつくる“熱血共同体”
「進撃の巨人」や「ONE PIECE」などの話題作も見たことがない。私のなかに偏見があるのではないが、漫画がマンガに変わっても、文芸作品のようなマンガが出てきても、手を出す気にはなれなかった。
その話は置いておくが、「巨人の星」の絵は川崎のぼる、原作者は梶原一騎。「あしたのジョー」の絵はちばてつや、原作者は高森朝樹。高森は梶原の本名である。
このころから絵を描く人と、原作者が別々という、漫画界では画期的な「分業制」が定着し始めたのである。
小説家志望だった梶原にマンガの原作を依頼したのは牧野武朗少年マガジン編集長だった。売れっ子のマンガ家はアイデアから絵の仕上げまで1人でやっている。人間の限界を超えているから、良い作品をつくるには絵を描く人と原作を考える人を分業するのが一番いい。映画でも落語だって、他の娯楽はみな分業です。
そう説得したという。そこから「巨人の星」や「あしたのジョー」へと梶原の快進撃が始まった。
以来、マンガを描く人とストーリーを考える人を「分業」するやり方が主流になっていったのである。
その前までは、マンガ家はストーリーがつくれて絵が描けて一人前といわれていた。地方にいる有能なマンガを描ける新人を上京させ、アパートにカンヅメにして、編集者がつきっきりでストーリーを一緒に考え、一人前のマンガ家に育て上げていく。
そうしたシステムのためだろう、女性マンガ家と結婚する編集者がよくいた。
『マンガ文化55のキーワード』(竹内オサム・西原麻里編著=ミネルヴァ書房)にはこうある。
「一言でいってマンガ編集者は、日本以外のマンガ出版ではほとんど見られないほど作家と一体化し、『熱血共同体』とでもいいたくなる連帯感を理想としている。(中略)マンガ編集者にとって新人作家をヒットメーカーに育て、盟友的関係になることは、先達の達成した『神話』であり、目標でもある」
我々のような「雑誌屋」は、どんなに親しくしていようと、その人間が何かしでかせば、躊躇なく取材し記事にするから、その人間との関係は断絶してしまう。
雑誌をやっていると、多くの人間と知り合い酒を飲み交わすが、残るのはほんのわずかな人たちである。
だが、マンガ編集者はそうではない。あまり知られていないようだが、マンガ家は講談社グループと小学館・集英社グループとに分かれている。私が知る限り、両グループに所属するマンガ家の交流はない。その代わり、講談社グループに所属すれば、そのマンガ家が描けなくなっても、それなりの金額を、講談社は払い続けていた。
これだけマンガが売れ続け、マンガをもっている出版社はわが世の春を謳歌しているのに、新潮社や文藝春秋社が大ヒットするマンガを生み出せないのは、才能のあるマンガ家が、既に大手に囲われているからである。
もし文藝春秋社がマンガ雑誌を創刊するとすれば、まず、絵の描ける才能のあるマンガ家を見つけ出し、編集者がつきっきりで育て、これまた才能のある原作者にストーリーを考えてもらわなくてはいけない。
一からやるとなると、少なくとも10年、20年はかかる。とても両社にそんな余力はないだろう。
出版社を支える巨大ビジネスとなった漫画
昔話に帰ろう。
マンガ編集者が銀座のバーで飲むのをちょくちょく見かけるようになったのは、80年頃からだったように記憶している。
それまでは私が所属していた週刊誌編集者や小説雑誌の編集者が、打ち合わせと称してノンフィクション・ライターや作家を連れて飲む姿がそこここに見られた。
「文壇バー」なるものがいくつかあり、作家たちの交流の場になっていた。そこの支払いは、それぞれの作家についている各社の編集者が払っていた。
クラブの隅の席でマンガ家や原作者と話すマンガ編集者の姿は、失礼ないい方になるが、我々から見ると“場違い”な感じがしたものだった。
だが、梶原一騎は違っていた。
私は一度、今はない山王ホテルで当時、山口組よりも怖いといわれていた某組の組長と梶原が並んで話しているところに遭遇したことがあった。
組長のほうがカタギに見えたくらい、梶原はほかを威圧する顔と雰囲気をもっていた。
銀座のバーでも、梶原の席だけはスポットライトを浴びたように見えた。我々週刊誌屋も梶原たちの集団を見ると、早々に店を出たものだった。
マンガ編集部、とくに「少年マガジン」は社のなかでも特別な存在になっていた。「巨人の星」や「あしたのジョー」の連載が終わっても、次々に大ヒットマンガを創出し、集英社の「少年ジャンプ」と共に、何百万という大部数を誇っていた。
そこで連載したマンガをコミックス(単行本)にし、初版何十万部、累積何百万部というマンガを量産していった。
こんなことがあった。私が週刊現代編集長の時だから、90年代半ば頃だった。当時は年2回、優れた実績を上げた編集部に「社長賞」が贈られた。
そのころは、現代も好調で、毎週のように実売85%以上をクリアしていた。某年の暮れの社長賞に現代とマガジン編集部が選ばれた。
社長から手渡された賞金はズッシリと重かった。編集部に戻って、編集部員たちを集めてこう言った。
「今回の賞金はすごいぞ! 横にした封筒が立ってる」
正確な金額は失念したが、200万か300万円だったと記憶している。そのカネで編集部員、取材記者たち総勢約100人で温泉に行って、地元の芸者衆も呼びドンチャン騒ぎした。
その後、私は編集長を辞したが、あれほどの額の社長賞を現代がもらったという話は、聞いたことはない。だが、マガジン編集部は毎年もらい続けていたのであろう。
98年以降、出版の売上は急速な右肩下がりになるなか、マンガだけは順調に推移し、今では講談社、小学館、集英社などの大手出版社は、マンガが社を支えているといってもいいだろう。
(つづく)
<プロフィール>
元木昌彦(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。








