千鳥屋分裂の系譜~老舗ブランドの光と影(3)ツユ氏死去で表面化した資産問題
千鳥屋の歩みは、単なる一軒の老舗による拡大の軌跡ではない。原田一族は飯塚を軸に、福岡、東京、大阪・兵庫へとそれぞれの道を歩み、やがて「4つの千鳥屋」と呼ばれる姿になった。同じ暖簾の下にありながら、進む方向は少しずつ異なり、その広がりは栄光であると同時に、分裂と葛藤の歴史でもあった。
1995年12月、ツユ氏が亡くなると、遺産分割の問題が表面化し、分裂が決定的となった。遺書が存在せず、店舗や不動産が共有持分のまま残されたことが、親族間の長期的な火種になったという構図である。創業家の子どもたちは、それぞれの地域で実質的な事業単位を形成していたが、資産や権利関係は必ずしも整理されていなかった。その結果、兄弟間、さらには次世代へと対立が持ち越され、訴訟や紛争が続いたとされる。
ブランド共有が招いた混乱
この同族対立は、単なる親族間の争いにとどまらなかった。ブランド運営にも大きな影響を与えたからだ。消費者から見れば「千鳥屋」は1つの老舗である。しかし、実際には別法人がそれぞれ同じ源流を掲げ、似た商品や似た店構えで営業している。しかも、その中身は必ずしも同じではない。たとえば、同じ「花千鳥」の名を冠する商品でも、会社によって中身や味が異なるという指摘もあった。ブランド名は共有されていても、商品実態は分岐していたのである。これは、老舗ブランドにとって大きな弱点だった。ブランドを一体的に育てることが難しくなり、消費者の認識と経営実態が乖離していった。
福岡系は再整備で独自路線へ
その後、各系統はそれぞれ独自の道を歩む。福岡系の千鳥饅頭総本舗は、福岡都市圏を基盤に再整備を進めた。97年に現法人の基礎となる会社を設立し、2000年には上呉服町に新本店を開店、01年には新宮町に福岡セントラル工場を設立して、生産と販売の体制を整えた。現在は福岡県内を中心に店舗網を維持し、佐賀県や沖縄県にも展開している。光博氏は、1963年からヨーロッパで修行しており、その頃ウルズラ夫人と出会った。光博氏が悪性リンパ腫に侵され、2008年6月に逝去。その後はウルズラ夫人と息子たちが事業を引き継いだ。長男・浩司氏、次男・健生氏、三男・広太郎氏の3人の息子がいる。光博氏死去後、一時はウルズラ氏が代表権をもち、次男・健生氏が代表権のない社長となり、2人で組織経営基盤の見直しや再構築に努めていた。その後、健生氏はパンの「スベンスカ」をもって独立、現在は長男の浩司氏が代表取締役、三男の広太郎氏が専務取締役を務める。
26年3月には、飯塚系の民事再生申請について「当社とは無関係」と明確に表明し、自社は通常営業を続けていることを打ち出した。つまり福岡系は、歴史を継承しながらも、現在は独立した企業として安定経営を志向している。
飯塚系が抱えた歴史と現実
一方、飯塚系の千鳥屋本家は、歴史的本流を最も強く意識する立場にあった。飯塚本町の店舗には古い看板や旧宅とのつながりが残り、創業地・本店としての物語性を前面に出していた。しかし、現法人としては05年設立と新しく、会社の実態は歴史そのものではなく、歴史を受け継ぐ現代法人であった。この飯塚系が大きな打撃を受けたのが、「チロリアン」をめぐる商標問題である。
(つづく)
【内山義之】








