大学教育が死んで、日本の知が崩壊する?(4)
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横浜国立大学 教育人間科学部 教授 室井 尚 氏
わかっていただけないのなら、お金を打ち切ります
――少し質問の角度を変えます。「国立大学の独立法人化」(2004年)施行後すぐに、先生が会長を務めておられた日本記号学会(05年5月、第25回大会)では、「<大学>はどこに行くのか?」という討議が行われています。議事録『溶解する「大学」』(日本記号学会編、慶應義塾大学出版会)を拝読しましたが、この時点で、すでに今の問題が出そろっています。約10年前のことです。しかし、現在の事態に至っています。それはなぜでしょうか。
室井 このときの大会では、西垣通氏(当時・東京大学教授)による講演「グローバル化と大学知の危機」と内田樹氏(当時・神戸女学院大学教授)、金子郁容氏(慶應義塾大学教授)、吉岡洋氏(当時・情報科学芸術大学院大学教授)と私によるシンポジウム「大学の未来―新たな改革モデルを求めて」を軸にして、さまざまな先生方に討議に参加していただきました。おっしゃる通り、ほとんどこの時点で、現在の問題は出そろっていたと言えるかもしれません。
ご質問の件ですが、答えはいくつも考えられ、限定することはできません。ただし、私は2つのことが頭に浮かびます。
1つは、当事者の国立大学教員として考えた場合、文科省の言うことには、どんなに抵抗しても、勝てないと思っていることです。今回のケースもそうですが、「わかっていただけないのなら、お金を打ち切ります」という支配構造になっています。タコ壺状態で、団体行動を起こすことが難しい
もう1つは、近代以降の学問や科学の世界では、専門領域主義と呼ばれる分業体制が進んできており、同じ学問領域のなかでさえも細かく専門が分かれていれば、隣の研究室でどんなことをしているのかを知らないことが多いのです。その意味では、文系であろうが、理系であろうが、基本的に「タコ壺」状態ということになります。
私自身はこういう環境が嫌いで、文系、理系、芸術家や建築家、映画監督、アマチュア研究者など多様な人が参加している「日本記号学会」での活動を続けていますが、これはむしろ例外的なことと言えるかもしれません。
つまり、人文系の教員はとくに、基本的には雑居ビルのなかに入っている、個人営業の小さなスナックの主人のようなもので、自分の仕事に障害が出ない限り、よほど大きな問題でも起こらない限り(本件は、この「よほど大きな問題」に該当するのですが)、団体行動を起こしづらい環境にあります。しかし、私たちの自由な研究のための時間は、確実にどんどん減ってきています。基本的には、個人的な研究をしている人は、20年前よりも、大学に来なくてはならない日が増えています。「大綱化」以降、授業など教育に関しては当然のことですが、それよりも「管理運営業務」(外部資金や科研費の申請はもちろんのこと、予算案の作成から管理、物品の購入・納品の手続き作業、毎年夏の「エアコン・フィルターの掃除確認」まで)が増えて、自宅研修する余裕もなくなっているのです。
組織が潰れたからと言ってもヒトは潰れません
――最後に、読者にメッセージをいただけますか。
室井 今、我々国立大学教員が対峙しているのは、たしかにとても困難な問題だと思います。だからと言って、大学教育が死んで「日本の知が崩壊」してしまうとは、私は考えておりません。組織が潰されたからと言って、ヒトが潰れることはないからです。今回、拙著を読んでいただいたまったく面識のない大手企業の人事担当役員の方から、メールをいただきました。そこには、「私共も先生の考えておられるような学生を採用したい」と書かれてありました。
私は、ものごとを悲観的に考えることは嫌いです。そのうえで、読者の皆さんにお伝えしたいことが2点あります。
1つ目は、「大学が育てるのは、“人間”であって、国家やグローバル企業に奉仕する“人材”ではない」ということです。大学の役割は基本的には、「無知との戦い」あるいは、「無思考との戦い」なのです。目の前の現実に対し、本当にこれでいいのかということを疑い、自分の頭で批判的に考え、行動する人々を育成し、社会に送り出していきたいと思っています。情報は、普遍性や真理との結びつきを持たない
2つ目は、「教養教育」や「リベラルアーツ教育」が大切なのは、それらの1つひとつの科目が、その人が普通に考えてきた人生を生き抜くのに役に立つとか、豊かにすることではないということです。そうではなくて、さまざまな考え方を学ぶことで、自分がそれまで自由に考えていなかったこと、さまざまなイデオロギーや因襲に縛られていたということに対する「自覚」や「気づき」を与えてくれるから大切なのです。
コミュニケーション技術が発達した現代では、「知」は、しばしば「情報」という言葉に置き換えられます。しかし、「情報」とは、第1に「役に立つ」という有用性において捉えられる知の形態であり、普遍性や真理との結びつきを持っていません。文科省が今大学に求めている「社会に出てから役に立つ知識」というのも、またこのような「情報としての知」に他なりません。そして、情報としての知には、何よりも歴史的な文脈が欠けています。一方、歴史や哲学や文学・芸術のような人文系が与えてくれるのは、それらとは「まったく異なる価値を持つ知」です。それは問題を解決する知ではなく、問題がなぜそのようなかたちで生まれてきたのかという、元々の文脈や起源を問い直すような知の形態なのです。
――本日はありがとうございました。
(了)
【金木 亮憲】<プロフィール>
室井 尚(むろい・ひさし)
1955年3月24日山形市生まれ。横浜国立大学教育人間科学部教授。京都大学文学部卒業。同大大学院文学研究科博士課程修了。帝塚山学院大学専任講師などを経て、92年から横浜国立大学助教授、2004年から現職。01年には「横浜トリエンナーレ2001」で全長50mの巨大バッタバルーンを含む複合アートを制作、11年にはクシシュトフ・ヴォディチコ氏を招き、学生達と新作プロジェンクション・アートを制作するなど、ジャンルを超越した分野で活躍。専門は哲学、美学、芸術学、記号論など。著書として、『情報宇宙論』(岩波書店)、『哲学問題としてのテクノロジー』(講談社選書メチエ)、『タバコ狩り』(平凡社新書)など多数。関連記事
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