運営していた「サロン幸福亭ぐるり」(現・「サロン幸福亭」)は、高齢者の居場所として地域の住民に人気があった。高齢者ゆえに認知症の常連も増えてくる。カミングアウトした横井さんのことは何度も紹介した。サロンという“現場”で常連客が認知症になり、日常生活に支障をきたす場面を数多く見てきた。ただ、介護する家族は認知症当事者の要求に十分対応できたとはいえない。サロンの空気も、認知症への恐怖と哀れみが支配していた。初期も含めて、認知症当事者は何を見ているのか、何を考えているのかという疑問が常に私の頭にはあった。
『恍惚の人』が放つ
センセーショナルな事実
“呆け”という言葉がセンセーショナルに扱われたのは、1972年に発売された『恍惚の人』(有吉佐和子 新潮社)だろう。当時200万部の大ヒットベストセラーになり、日本中を驚かせた。翌年、映画化され、主人公の昭子を高峰秀子、呆け老人の義父を森繁久弥が好演した。“事件”は突然起きる。昭子は地下鉄東京メトロ新高円寺駅に降りる。「五日市街道から梅里へ折れて、ふと足を止めた。むこうから背の高い老人が真っすぐにこちらを向いて歩いてくるのが見えた。どういうわけか血相が変わっている。ネクタイをしめ、革靴をはいているが、外套は着ていない。傘も持っていない。雪の中を出てきたにしては様子がおかしい」(『恍惚の人』)。
これが異常をきたした義父との最初の出会いである。妻の死を理解できない。大食、記憶障害、妄想、徘徊、失禁…。嫁と舅との壮絶な日常が始まる。有吉は、「『恍惚』は『人間の尊厳を傷つけない言葉』を探し、江戸時代の儒学者頼山陽の『日本外史』の一文、『老いて病み恍惚として人を識らず』から取ったという。当時41歳の有吉は『老耄の極致は恍惚……あす私に待っている問題としてとらえたかった』と語っている」(「朝日新聞」2015年11月14日「あのとき それから」)。まだ認知症という用語がなく、呆け、痴呆症と呼ばれていた時代の話。「(『恍惚の人』が出版された)翌1973年に厚生省(現・厚労省)に入った医療介護福祉政策研究理事長の中村秀一(67)は、『告発の書』と受け止めた。この本をきっかけに、『国民は大変な問題だと認識し、厚生省もそういう認識だった』」(同紙)と述べている。「福祉元年」といわれたのはこの年であり、『恍惚の人』が引き金となったのだった。
脳科学者が実母の認知症体験を
冷静に分析
認知症に関しての出版物は、「介護する側の苦労話」「認知症にならない生活の仕方」「認知症改善薬」「認知症当事者のデータを集めた統計的な分析を扱った書籍」が大半を占めている。最近、『認知症の私から見える社会』(丹野智文 講談社+α新書)のように、若年性認知症当事者による体験本も登場するようになり、少しは理解が深まったように見える。しかし実態は相変わらず認知症当事者への偏見、無理解、何より行政やNPO法人に関わる人たちが、当事者側より介護する側に立ち、肝心の当事者が無視されるという想定外のことが起きている。具体的には、「認知症カフェという場所があります。認知症の人や家族、地域の人たちが気軽に集い、悩みを共有し合いながら専門職に相談もできる場所になっています。しかし実際には、必ずしもそうした場所にはなっていません。家族の相談が主体の認知症カフェに、当事者が一緒に参加しても、そこは家族がつらさを分かち合う場であり、家族中心で話が進められるから、当事者の居場所はありません。認知症カフェに当事者が行かない理由、それはカフェに行っても面白くないからです」(同書より)と丹野はいう。当事者側が何を望んでいるのかについて十分な考慮がされていない。
そんななか母が認知症になり、母の介護を通して母親が何を考え、何を見ていたのかを、脳科学者の目を通して明晰に解明していく本に出会った。『脳科学者の母が、認知症になる』(恩蔵絢子 河出文庫)がそれである。「認知症患者は自分の状態をどう感じているのか」という項目で、「母は本当に自覚がなかったわけではなく、娘に自分が異常であるかのようにいわれることが辛かったり、娘に病気であることを自分で認めるのが辛かったりして、否定しただけの可能性があったのである」。オランダの研究者マリケ・E・デ・ブールの初期の認知症当事者へのインタビューを用いて、「自分の状態に対する心配や不安を口にした。自分が一番傷つくことについて語った。人前でミスすること、家族に認めてもらえないこと、家族が自分の代わりに全部やってしまおうとすること」。「自分のミスにより、また、それに対する他人からの反応により、自分が無能であると感じ、自我が傷つけられ、脅かされていた。失敗を隠し、とりつくろっていた」という現実を知る。
「本人も自覚があり、恥をかいたと落ち込むことが増えました。私や父の戸惑いにも不安が募ったと思います。できていたことができなくなり、自尊心が傷つく場面があったせいで、本当はまだできたこともやりたくなくなってしまったのではと今、反省しています」(朝日新聞2024年12月21日「認知症とともに」)と介護者目線で語っている。一方で、脳科学者の視点から、「海馬が萎縮しても隣の扁桃体など感情をつかさどる部位は逆に機能が高まることがあり、楽しい、悲しいなどさまざまに心は動き続けます。社会生活には欠かせない大脳皮質も、認知症が重度になってもすべて影響を受けるとは限らず、自尊心、相手を思いやる気持ちなど人間の複雑な感情は持ち続け、社会的な存在であり続けます。感情を持ち続けることは希望で、それを踏みにじってはいけないと思います」(同紙)と、冷静な判断を下す。
痴呆老人が見ているもの
臨床医としての立場から、終末期医療全般に取り組んだ大井玄の、『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書 08年)も、以降の認知症を考えるうえで注目を集め、新書としては異例の版を重ねた。そのカバー裏に、「痴呆症状態にある老人たちを通して見えてくる正常と異常のあいだ。そこに介在する文化と倫理の根源異差をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす」と衝撃的に紹介されている。
認知症当事者には最も困難な、「コミュニケーションという方法論」の項で、「コミュニケーションという名詞には、コミュニケイトという英語の動詞が対応しており、ラテン語のコミュニカに由来します。これは情報を共有する、という現代人が理解する意味と同時に、『共に楽しむ』という古義があり、『楽しい』という情動(感情)を共有するという合意があります」という。これは恩蔵の「(会話する能力は失っても)感情機能は残り、自尊心も残る」と同じ。嬉しい、楽しいという気持ちを失うことはなく、逆に扁桃体の機能は高まる。感情によるコミュニケーションは残されているということになる。
「認知症のケアにあたる人の間でよく知られた『偽会話』、つまり『会話』であっても情報共有という働きが失われたコミュニケーション形式ですが、『共に楽しむ』という情報レベルでは、コミュニケーションは立派に成立しています。偽会話の成立は、彼女(彼ら)たちが喋られた内容を論理として理解はできないし、また直ぐに忘れてしまうことも考慮すれば了解できます」(同)。認知症当事者は人間の持つ機能をすべて失う「廃人」という考え方を一掃させた。認知症当事者同士の「感情による会話」は十分に成り立つことを意味している。共に生活するうえで情動だけのコミュニケーションで十分ではないか。「認知症者の尊厳ある生き方」とは、こうした彼らだけの特有の会話を、我々が認めるということだ。私は認知症の世界を生きる人には、健常者の世界(現世)とは別の彼らだけに通じる世界があると本気で思っている。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。








