劇団エーテル主宰 中島淳一
人間の身体ほど、長く付き合っていながら分からないものはない。
毎朝、目を覚まし、立ち上がり、歩き、食べ、眠る。何十年も同じ身体を使って生きているのだから、自分の身体については自分が一番よく知っているはずである。ところが、身体はこちらの理解などお構いなしに、突然、不可解な出来事を起こす。
私の場合、それは左脚の膝である。
月に一度くらい、決まった理由もないのに膝の周辺が痛み始める。昨日まで普通に歩いていたのに、翌朝になると一歩一歩が重い。歩く速度も極端に遅くなる。
「今度こそ病院に行かなければならない」
そう思い始める。ところが、不思議なことに、たいてい三日ほどすると痛みは消える。何事もなかったように歩けるのである。
病院へ行こうと思ったころには治っている。その繰り返しだから、つい私は身体の気まぐれなのだろうと思ってしまう。
ところが6月は違った。膝の内側の骨のあたりに、これまでとは違う痛みが走った。歩くことそのものが困難になったのである。
それでも私は、「3日待てば治る」と思っていた。
3日が過ぎた。治らない。
5日が過ぎた。まだ痛い。
1週間が過ぎても痛みは消えなかった。
さすがに不安になった。このまま歩けなくなるのではないか。年齢を重ねるということは、ある日突然、それまで当然だったことが当然ではなくなることなのかもしれない。
「もう駄目か」そんな言葉さえ頭をよぎった。
ところが9日目の朝だった。立ち上がってみる。痛くない。歩いてみる。痛くない。
昨日までの痛みはどこへ行ったのか。まるで誰かが夜中に私の膝から痛みだけを抜き取っていったようだった。
人体とは不思議なものである。
そして7月。今度は、一人演劇『ナザレのイエス』の上演を控えた週に、また膝が痛み始めた。
これは困った。日常生活なら、ゆっくり歩けばいい。椅子に座っていればいい。しかし舞台はそうはいかない。
一人演劇では、舞台上にいる人間は私1人である。誰かに代わってもらうことはできない。
しかも『ナザレのイエス』は、ただ台詞を語ればよい芝居ではない。身体そのものが言葉にならなければならない。立ち、歩き、振り返り、沈黙する。その一つ一つが演技である。
上演前日になっても痛みは残っていた。「明日、この脚で本当に舞台に立てるのだろうか」と私は訝った。
ところが──
上演当日。
痛みが消えた。
嘘のように消えていた。舞台に立っても何の影響もなかった。私はいつものように歩き、演じ、最後まで『ナザレのイエス』を上演することができた。
もちろん、これを「奇跡」と呼ぶつもりはない。身体の痛みには原因があるはずである。関節なのか、筋肉なのか、腱なのか、それとも別のところに理由があるのか。繰り返す痛みであれば、症状が消えたからといって安心せず、一度きちんと医師に診てもらう必要もあるだろう。
しかし、それとは別に、私は自分の身体に対して奇妙な感慨を抱く。
身体は、私の所有物でありながら、完全には私の支配下にない。
「歩け」と命令しても、痛ければ歩けない。「治れ」と命令しても、治ってはくれない。それなのに、こちらがあきらめかけたころ、身体は何も説明せず、黙って回復している。
考えてみれば、心臓もそうである。私は眠っている間、「動け」と一度も命令していない。それでも心臓は休まず鼓動を続ける。傷ができれば、私が指図しなくても身体は修復を始める。
私たちは身体を動かして生きているつもりだが、実は身体によって生かされているのではないか。
8月になった。今のところ、左膝に痛みはない。そして次の一人演劇『マクベス』の上演の日が、少しずつ近づいている。
マクベスは、自分の運命を自分の意志で切り拓こうとして、ついには運命そのものに呑み込まれていく男である。
そう考えると、人間の身体も少し似ている。私たちは自分の身体を支配していると思っている。
だが身体には、身体の時間がある。痛む日があり、治る日がある。理由を語らず、予告もしない。
私は今日も普通に歩いている。その「普通」が、実はどれほど精妙な均衡の上に成り立っているのか。
痛みが消えたときにだけ、それを知る。
『マクベス』の上演当日まで、この左脚が黙っていてくれることを願っている。
そして舞台の上で最初の一歩を踏み出せたなら──
その一歩は、昨日までとは少し違って感じられるかもしれない。
歩ける。ただそれだけのことが、人体という途方もない神秘なのである。









