【特別インタビュー】舞い、謡い、そしてチケットを売る 九州で能を続ける、その舞台裏

シテ方能楽師 多久島法子

シテ方能楽師 多久島法子

 舞台に立ち、舞い、謡うだけが能楽師の仕事ではない。公演を企画し、チケットを売り、観客を育てることもまた、能を続けるために欠かせない仕事だ。そして能の舞台では、動かないことで表現を深め、面をつけることで、自分を離れて見る感覚を保ちながら舞い、謡う。福岡を拠点に活動するシテ方能楽師・多久島法子氏に、藝大時代の経験、舞台を支える仕事、能の奥深さ、九州で能を続ける意味を聞いた。

能楽師の家に生まれ自然に舞台へ

 ──多久島さんはシテ方能楽師の家に生まれ、小さいころに初舞台を踏んだそうですね。

初舞台(2歳の頃)
初舞台(2歳の頃)

 多久島法子(以下、多久島) 2歳後半くらいです。一句謡って、扇をもって舞台を一周するお披露目のようなものでした。姉が先にいろいろな曲をしているのを見ながら、自分の稽古の日ではない時も扇をもって真似をしていたようです。

 祖父は佐賀県唐津市で能楽師をしていました。父の代から福岡市を拠点に活動するようになりました。私は生まれも育ちも福岡市です。高取小学校から高取中学校、高校は雙葉学園に通いました。

 ──いつごろから能楽師になることを意識しましたか。

 多久島 とくにいつからという記憶はありません。初めて能を舞ったのが中学生の時でした。そのときはまだ面をつけず、衣装だけをつけて舞いました。それから高校生くらいで、初めて能面をつける初面(はつおもて)をさせてもらいました。そこからは毎年、多い時は年に2回、能を舞っていました。

 ただ、その時ですら、プロになるという感覚はあまりありませんでした。与えられたことをやっている、という感じです。仕事とは思っていませんでしたし、「これはやらなきゃいけないんだ」という感覚でした。父に「次これをやるよ」と言われたら、「あ、そうなんだ」と。ときには稽古したくない、遊びに行きたい、というジレンマもありました。でも舞台に立つと、お客さんや父のお社中(※)さんたちに褒めてもらえて、「やってよかった」「気持ちよかった」という感覚もそのころからありました。

 同じように能の稽古をしている仲間に少し年上の人たちがいて、その人たちがみんな藝大に進んだので、私も自然に藝大へ進む流れになりました。

※社中:能楽師が主宰する、謡や仕舞の稽古に通う生徒。

能「巴」
能「巴」

藝大の厳しさと刺激 みえてきたプロの道

 ──藝大での専攻は。

 多久島 東京藝術大学音楽学部邦楽科能楽専攻です。藝大の授業は基本的には実技中心でした。それまではずっと父に教えてもらっていて、父以外には、稀に師匠の大槻文藏先生に見てもらう機会があるくらいでした。藝大に行って初めて、父以外の能楽師の先生方に教えを請うことになりました。

 私はシテ方なので、本来は謡(うたい)と舞が中心です。しかし授業では、笛も吹きますし、太鼓も鼓も全部やります。謡も囃子なし・ありで分かれていて、先生も違う。舞もあり、四拍子(しびょうし、笛・小鼓・大鼓・太鼓)に加えて狂言もありました。実質7つくらいの科目を毎週やる感覚でした。厳しいし、手附(てつけ、鼓・太鼓の楽譜)も謡も全部暗記しなくてはいけないし、でも遊びたいし、泣きながら覚えるような4年間でした。加えて英語などの単位も取らなければならず、本当に大変でした。

能「石橋」
能「石橋」

 邦楽科には日本舞踊、雅楽、長唄囃子などの人もいて、能楽堂のようなホールもありました。そこで定期公演をしたり、他分野の人の演奏や舞台に触れたりする機会がありました。「こういうところは一緒だな」とか、「こんなに違うんだ」とか、リアルに感じました。

 また、最初は寮に入っていて、同部屋の子が声楽科でした。やっていることはまったく違うはずなのに、姿勢、丹田の使い方、抑揚など、注意される内容が一緒だったりしました。「それ私も言われた」みたいな、ジャンルが違っても似ているところがある。その面白さが、後年、能と他ジャンルのコラボにもつながっていると思います。能だけをやっていたらわからなかったことを、藝大で他ジャンルの人たちと交わることで知ることができましたし、能楽へのリスペクトも増しました。今思えば、とても濃い4年間でした。

 そのころ、周りの学生、とくに男子学生は、能楽師になるべく、学校に通いながら先生のもとへ通い始めていました。学校が終わった後に通って、舞台の手伝いをしたり、出演したりする。私は師匠が大阪だったので、東京にいる間はそこまでではありませんでしたが、そういう友達を見て、プロになることがすごく身近になりました。もし父に教えてもらっているだけだったら、そうはならなかったかもしれません。

 藝大に行き、同じくらいの年齢で切磋琢磨する人がたくさんいたことで、自然に「プロになる」という流れに入っていました。悩むとか迷うという感覚があまりないくらい、その世界に浸かっていました。振り返ったらそうだった、という感じです。「よし、これで私も能楽師になるために勉強しよう」と明確に考えるタイプではなく、私は自然な流れのなかでここまできたように思います。7年間の内弟子生活も、気づいたら修行していたという感覚です。

稽古以上に学んだ能楽師の在り方

能「龍田」
能「龍田」

 ──師匠が大阪の大槻文藏先生ということですが、それはどのように決まるものなのでしょうか。

 多久島 能楽師の家は、基本的に世襲です。父も大槻秀夫先生、そして大槻文藏先生に師事しています。家にそういう流れがあるので、その家に生まれると、師匠筋も概ねその流れで決まっていきます。もちろん例外もありますが、基本はそうです。だから私も、必然的に大槻家へ修行に行くことが決まっていました。

 大学を卒業すると、福岡に帰ることなく、東京の荷物をそのまま大阪へ持って行き、すぐ書生として生活し始めました。書生に入って初めて楽屋のことを知り、「こんなこともやるのか」と初めて知ることばかりでした。たとえば、装束につける糸止めも、既製品を使うのではなく、自分で装束糸をよって用意します。曲ごとに、見えない部分の準備が必要です。師匠が舞台に出るときは、それらをすべてそろえる。その作業を学びました。

 もう1つ大きかったのがお金のことです。先生のお弟子さんの会や催しの会計を一部任されることもありました。誰にどうお願いするか、いくら包むか、どういう封筒に入れて、どういう手紙を添えるか。そういうことまで学びました。舞台に出ることだけではありません。下準備から、オファー、お弁当、飛行機、宿泊の手配まで、いろいろなことを7年間で少しずつ学びました。

 独立して最初に大きな会を自分で開く時、「書生生活で学んだのはこういうことだったんだな」と思いました。師匠はとくに準備に厳しく、細やかで、気配りのできる方でした。そこから学んだことは大きかったです。父にもずいぶん助けてもらいましたが、書生生活で学んだのは、「能を舞うこと」そのもの以上に、能楽師の在り方だったと思います。

 書生中の師匠からの稽古はとても貴重なものでした。師匠がお社中さんや玄人弟子に付ける稽古を見て盗んで学ぶことが基本でした。自分の為の稽古はもちろんですが、まだ教えてもらえないような演目も見聞き出来る機会でしたので、そのときのメモなどは今でも大変役に立っています。

チケットを売ることも能楽師の仕事

能「小鍛冶」(黒頭)
能「小鍛冶」(黒頭)

 ──能楽師は舞台上で演じるだけでなく、興行そのものも担わなければならないのですね。

 多久島 そうです。能楽師の仕事の1つとして、お客さんを呼ぶことも重要です。自分の稽古よりも先に、チケットを売るための宣伝を考えなければなりません。売れなければ、自分が持ち出しをしなければならない。助成金をいただくこともありますが、それを使っても、どうしても足が出ることがあります。だから、いかに宣伝するか、面白そうだと思ってもらえるチラシをつくるか。そういうことを、福岡に戻ってきてからずっと試行錯誤しています。

 しかも、興行主として出演者へのお礼の振込や、お弁当の手配まで自分でやります。能楽師は基本的に個人事業主です。舞台だけに専念できれば、どれほど楽だろうと思います。一番労力がいるのは、やはりチケットを売ることです。

 ──すべてを能楽師が担うことも、能の伝統なのでしょうか。

 多久島 能は舞台さえあれば、能楽師だけで演じることができます。他の舞台芸術で必須とされる照明、音響、マイクは、能では基本的に必要ありません。能楽師だけで完結できることも、能の魅力の1つです。

 世阿弥の時代から、演者が作能や演出にも深く関わってきた流れがあると思います。今のような意味での興行とは少し違っていて、当時は権力者や上の立場の人たちの庇護を受けて演能していた面もあります。集客や興行をどこまで自分でやっていたかは別として、自分たちでつくり、自分たちで演じるという流れは、あの時代から受け継がれてきたのだと思います。祖先たちが続けてきたことを、今もやっているのだと思います。

動かないことで表現は強くなる

 ──能を舞うとは、身体的・精神的にどういうものですか。

 多久島 能は「動かない」とよく言われます。5分後に見ても同じ位置にいる、といわれることもあります。でも、まずその「動かないこと」が大事です。

 私も舞の指導をしていますが、皆さんどうしても表現したがります。しかし、それは意外と表現につながっていなくて、無駄な動きで終わってしまうことが多い。実は能は、表現したいものがある時こそ極力動かない。じっとしていて、ふと下を見るだけで、「下に何かある」とか、「音を聞いている」とか、見る人の想像力をかき立てる余白が生まれます。全部説明してしまったら、能ではありません。

 能は、あらゆるものをそぎ落とし、見る人に想像力をもって楽しんでもらう芸能です。だからこそ、人それぞれの楽しみ方がありますし、それが物語を豊かにしていきます。たとえば、強さを表現したい時、多くの人は強く動こうとして大股で進もうとします。でも能は逆です。速く見せればいいのであって、実際に速く行く必要はありません。差し込む(扇を前に突き出す)所作でも、強く見せたいからといって大きく出すのではありません。もっと向こうへ行きたいのに行かない。止めることで力が生まれる。動きと表現が反比例している世界です。その表現が成立するためには、自分の体、構えがしっかりしていなければなりません。剣道でもお茶でもそうですが、まず構えを崩さない。ここが崩れると、すべてが雑に見えてしまいます。

 私も若いころは、もっとやりたい、もっと大きく見せたい、という気持ちがありました。でも制限のなかでやる方が、表現力が強くなるということを、舞台を重ねるうちに実感してきました。

 ──動かない時、何が表現を支えているのでしょうか。

 多久島 そこで大事なのが謡(うたい)です。能は演劇でもありますが、謡をとても大事にします。謡えない人が能なんかできるわけがない、という感覚があります。だから最初に習うのは必ず謡です。囃子の人でもそうです。動いていない時、何が行われているかというと、地謡(コーラス)が謡っています。地謡を聞くことで、ただ立っているだけでも、それが寂しさにも見えるし、晴れやかさにも見える。こちらは面を少し上げる、少し下げるだけでいい。謡とリンクすることで、ただ座っているだけ、ただ立っているだけでも表現になります。それは、見る人・聞く人の想像力に委ねているということでもあり、聞く力、見る力も必要になります。そこが面白さでもあり、難しさでもあります。

面は「変身」ではなく自分を離れて見るためにある

面    ──面をつけると、何か変わりますか。

 多久島 面をつけると、ただ見えにくくなるだけではなく、すごく窮屈です。でも、もともと能はあらゆる表現が制限されています。これほど動いてはいけない、強く出してはいけない、という制限の最たるものが能面です。

 面をつけると「変身する」のではないかといわれることがあります。しかし、私はあまりそういう感覚はありません。どちらかというと、自分自身にさらに集中して、自分の芯、魂にぐっと入っていく感覚です。世阿弥は「離見の見」、自分を離れて見る目が大事だといいました。役を演じる感覚をもちながら、同時に第三者の目で自分を見る。その感覚が、能面をつけることで可能になるのではないかと思います。

 私は、役に入り込んで悦に入るというより、自分を見つめながら演じています。本番中も、「この所作を丁寧に」「ここは囃子が乗ってきたから少し抑えよう」といった、技術的なことをずっと考えていることが多いです。役への思いは、舞台に上がる前までにやっておく。本番で気持ちを全部表に出す芸術ではない、と私は思っています。お客さんを信じて、委ねる。師匠や父の舞台を見て、そう感じています。

 ──最近、印象に残った舞台はありますか。

三輪
能「三輪」

 多久島 最近、『三輪』という曲を舞いました。奈良の三輪山、大神神社にまつわる神さまの物語です。わかりやすく感動する話というわけではありませんが、それを見た若い方が「涙が出た」と言ってくれました。私は正直、「えっ、どの場面で?」という感じでした。でもその方は、神さまが降りてきて、自分に幸せのようなものが降り注いだ感覚になった、と言ってくれました。私が言葉で説明しきれない能の魅力を、知識がなくても自然に感じ取ってくれたことに、逆に教えられました。そういう感想を聞くと、やりすぎなくていいんだ、という境地にまた行きます。お客さんから教えてもらう能の魅力があります。

 ──好きな演目は。

能「葵上」
能「葵上」

    多久島 身体的には、激しいというより、キリッと舞う曲が好きです。ほとんど動かないような曲もあれば、その間にある、すばしっこい感覚の曲も好きです。心情的には、『道成寺』や『葵上』のように、美しいはずの女性が裏切られたり、強い思いにとらわれたりして、鬼へ変わっていくような、落差のある登場人物に惹かれます。能では演目を大きく神・男・女・狂・鬼などの性格で捉えることがありますが、私はそのなかで「狂」の要素を持つ曲に惹かれるのだと思います。狂いといっても、ただおかしくなるのではありません。子を亡くしたとか、愛する人への思いが強すぎるとか、愛が強いからこそ崩れやすくて脆い。その悲しさ、怒り、平常心が一曲のなかでいろいろ見られる曲は、演じ甲斐があります。

九州で能を続けるということ

 ──能を後世につなぐために、今どのようなことを意識していますか。

 多久島 「能を後世につなぐ」という大きな役目はもちろんありますが、日常のなかでそこまで大きく考えているわけではありません。ただ、能の公演は実際には、シテ方、つまり主人公をやる人が企画することが多いです。私たちが公演を企画しないと、九州での公演そのものが減ってしまいます。

 九州で公演が少なくなったり、東京に仕事が集まったりすると、九州に住まなくてもよくなってしまいます。そうすると、九州から能楽師がいなくなってしまう。私の観世流は、まだ九州で能ができるだけの人がいますが、他流ではなかなか難しい状況も起こっています。そういう意味で、自分が公演を打つことには、九州で能を続けていくための意味もあると思っています。

 ──新しい観客に能へ親しんでもらうため、どのような工夫をしていますか。

 多久島 昔は、能を詳しく説明することも、観客に扇に触れてもらうことも、足袋を履いて舞台に上がってもらうことも、まして能面をつけてもらうことも、とんでもないという空気がありました。でも今は、どんどん体験してもらい、写真を撮って、SNSに上げてもらう方向に変わってきました。

 それから、お土産やグッズも大事だと思っています。基本的に全部、自分で企画デザインをしています。自分の催しに合わせたTシャツ、エコバッグ、アクリルスタンド、ステッカーをはじめ、自身のキャラクターもつくっています。その場だけで終わらず、「行ってきたよ」「これ買ったよ」と誰かに話してもらうこと、口コミにつながることが大事だと思っています。また、いろいろなジャンルの方とコラボすることで、能以外のお客さんに「能も面白いんだな」と思ってもらえればと思っています。体験を通じて「習いたい」という方も実際に出てきています。見る人と習う人、その両方を育てていかなければならないと思っています。

能の世界に触れてほしい

 ──読者に伝えたいことはありますか。

 多久島 能は約700年の歴史を持つ芸能ですが、そこで描かれる物語は、今の人が見ても、若い人が見ても、感動することができます。私は、能の大きなテーマは祈りだと思っています。親子でも、恋人でも、離れ離れになった人々が「会えますように」と祈る。愛する人が「帰ってきますように」と祈る。恨みや怒りがあっても、最後には成仏を願う。能は、1人の人物の物語を深く描く芸能です。その人の人生を見つめることで、自分の人生も肯定されたり、いろいろな思いを馳せたりすることができます。

仕舞
仕舞

    能はたしかに難しい側面もあるかもしれません。250曲もあれば、最初に見るにはつらい曲もあります。だから最初の1曲目は大事です。今はネットでもいろいろ調べられますし、私に尋ねていただいても構いません。「福岡で最初に見るなら、どんな演目がいいですか」と。一歩踏み出してもらえたら、必ず琴線に触れる1曲に出会えると思います。

 できれば5曲くらいは見てほしいです。1回で「すばらしい」と分かる芸能ではないかもしれませんが、私も少しでも能の魅力が伝わるように、事前講座などを開いています。能の源流には、庶民も楽しんだ猿楽の世界があります。決して、今の私たちにわからない芸能ではありません。これからも福岡・九州で、みんな頑張って公演を続けていますので、ぜひ遊びにきてもらいたいと思います。

【寺村朋輝】


<PROFILE>
多久島法子
(たくしま・のりこ)
能楽師 シテ方 観世流 準職分、(公社)能楽協会会員、福岡県文化芸術振興審議会委員
シテ方能楽師 多久島法子福岡生まれ、福岡市在住。祖父、父に続き能楽師となる。初舞台2歳、仕舞「老松」を務める。東京藝術大学卒。在学中に安宅賞を受賞。人間国宝、大槻文藏に師事。大阪にて7年間の内弟子修業。九州を中心に、大阪、東京での舞台活動の他、福岡にて「NOH組曲」「0から能を楽しもう」、佐賀にて「能に親しむ会」「神埼子ども教室」、唐津にて「KARA唐コンサート」、各地で「能楽師×料理人」などを主催。能楽教室(福岡・佐賀・唐津)の他、講演活動も積極的に行う。能の「紙しばい」を製作し、紙しばいを通して小さな子どもたちにも能を楽しんでもらえるような新しい活動にも積極的。

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