【特別寄稿】AIは神か、仲間か 多神教的世界観から考えるAIとの付き合い方
宗教学者/東京通信大学非常勤講師
島田裕巳 氏
生成AIの急速な進化により、AIは医療、企業判断、自動運転など、私たちの生活と社会のあらゆる領域に入り込みつつある。一方で、責任の所在、判断の依存、ブラックボックス化といった問題も浮上している。AIを全知全能の「神」として恐れるのか、それとも人間を支える「仲間」として受け入れるのか。宗教学の視点から、一神教と多神教の世界観の違いを踏まえ、日本人がAIとどう向き合うべきかを考える。
AIは社会の補助者になった
島田裕巳 氏
AIの進歩には目覚ましいものがある。とくに生成AIの技術が進展し、ChatGPTやGeminiが広く使われるようになったことで、私たちはAIの進化を目の当たりにするようになり、それを自分たちでも積極的に活用するようになってきた。
だが、人間がAIの力を強く意識するようになったきっかけは、すでに2017年にあったといえる。将棋の名人が将棋ソフトの前に決定的な敗北を喫して以降、人間とAIが公の場で直接勝負することはほとんどなくなった。人間の棋士は、AIと競うのではなく、自らの棋力を高めるためにAIを活用するようになった。その構図が、今や社会全体に広がっている。
AIは、実にさまざまな場面で活用されている。その代表例の1つが医療分野だ。私はたまたま、それを身近に実感している。娘が医療関係の仕事に就き、胸部X線画像の診断支援にAIを活用する仕事をしているからである。ときどき、そのデモの練習に付き合わされる。健康診断や人間ドックでは、胸部X線を撮影することがある。その際、医師は大量の画像を見て、異常があるかどうかを判断しなければならない。そうなると、どうしても見落としの危険が生じる。臓器の背後に病変が隠れていて、異常を見つけにくい場合もある。それをAIが見つけ出し、どういった病気の可能性があるかを医師に示してくれるのだ。過去の画像との比較も可能で、そうした病気がいつごろ生じたのかを後から確認することもできる。娘のデモを通してそうした活用方法を説明されると、医療においてAIの導入がいかに重要になっているかがよくわかる。
これも医療分野の話だが、私のかかりつけのクリニックでエコー検査を担当している医療技師と話をする機会がある。その技師は、数十万件の検査をしてきたベテランだが、近年の装置の進歩は目覚ましく、解像度が驚異的に上がり、異常の発見が以前より容易になったという。これでは、近いうちに人間の技師は廃業になるのではないか。その技師は、そんな不安を抱えていると語っていた。
問われる判断と責任の所在
AIの社会への浸透はそこまで進んでいる。今やAIは、私たちの生活を成り立たせるうえで不可欠な道具になりつつある。しかし、AIが進化すればするほど、そこには難しい問題も生み出されていく。
医療分野において、今のところAIはあくまで診断の「補助」として使われている。患者がどのような病気なのか、病名を診断するのは人間の医師である。人間の医師は、AIが提示した結果を診断の参考にするものの、AIが直接「診断」するわけではない。しかし、AIがさらに進化し、人間以上に異常を発見することに長けていけば、人間の医師は次第にAIに依存するようになる。医師が多忙であることも、その傾向に拍車をかけるはずだ。
娘のデモに接してわかったのは、AIには病気についての「所見」を提示する機能も備わっており、それが医師の間で好評だということである。病院で私たちに示される所見は、すでに人間の医師が一から書いたものではなく、AIが生成した文章をもとにしているかもしれない。
今や生成AIの進化を目の当たりにしている私たちは、医師よりもAIの判断のほうが正しいのではないかと考えるようになりつつあるかもしれない。AIは病変の微細な変化を見逃さない。細かな部分になればなるほど、その面で人間はAIに敵わなくなっている。
同じことは企業の現場にもいえる。かつては、上司が内容を十分に確認しないまま稟議書に判子を押してしまうことがあった。電子決裁に変わった現在でも、内容を十分に見ず、承認ボタンを押してしまう傾向があるともいわれる。経営者が、AIによって作成された事業計画や投資判断を、そのまま承認してしまう危険性はないだろうか。
そうなると、最終的に誰が責任を負うべきなのかということが難しい問題として突きつけられてくる。医師の診断や経営者の決裁なら、その責任は医師や経営者にある。だが、自動車の自動運転で事故が起きた場合、その責任は誰が負うべきなのか。法律上は自動化の程度などによって判断されることになるが、判断が難しい微妙なケースも生まれてくるはずだ。
データ至上主義とブラックボックス化
イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリなどは、AIの進化に強い警戒感を示してきた。著書『ホモ・デウス』(河出書房新社)では、「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に代えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に代えることで、人間を主役から外すかもしれない」と指摘している。
ここでいわれる「データ至上主義」を、私たちは日々経験している。スマホやPCでインターネットを使っていると、さまざまな情報や広告が目に飛び込んでくる。それは、スマホやPCを使う人間がどのような領域やモノに関心をもっているかを、AIが判断して選んだデータなのである。
AIは、「ディープラーニング(深層学習)」の機能が組み込まれることで飛躍的に発展してきた。大量のデータをもとにAIが学習し、判断の精度を高めていく仕組みである。ただし、その学習の過程を人間は知ることができない。AIは「ブラックボックス化」しているのだ。
さらに、この先には「シンギュラリティ」の到来も予想されている。これは、AIが人間の知能を大きく超える転換点を指す言葉で、当初は2045年ごろに訪れると予測されていた。しかし、AI技術の進歩は著しく、すでにそれが到来しているという見方もある。
シンギュラリティについては、それを期待する声がある一方で、ハラリのように、文明の危機として強く警戒する声もある。ただ、こうしたシンギュラリティをめぐる議論は、一神教の世界では盛んでも、日本のような多神教的な世界では、それほど盛んではないように見受けられる。そこに、人間とAIの関係をめぐって重要なことが隠されているのではないだろうか。
一神教におけるAIへの恐れ
ユダヤ教から始まる一神教は、キリスト教に受け継がれ、イスラム教をも生んできた。とくにキリスト教とイスラム教は世界宗教として発展し、世界中に多くの信者を獲得してきた。人類の半分以上は、今や一神教の信者である。
一神教において、唯一絶対の神は「全知全能」であるとされる。神はあらゆることを知っており、どのようなことも実現できるというわけだ。それは、ユダヤ教とキリスト教に共通する聖典である旧約聖書の冒頭におさめられた『創世記』に示されている。神は一週間かけて世界を創造したが、自らが創造した人間が、自分の意に沿わない行動をとると、大洪水を引き起こし、人間を一掃してしまう。ただ、忠実な信仰をもつと見なされたノアの一家と動物たちだけが助かる。その点で、神は創造主として絶対の力をもち、人間にとっては逆らってはならない恐ろしい存在である。イスラム教になると、聖典の「コーラン」において、神の慈悲深さが強調され、なんでも許してくれるとされてはいるものの、やはりその奥には、信仰から外れる人間を許さない厳格さがある。
こうした一神教の世界においては、進化を遂げ続けているAIは神にもたとえられる。はたしてAIは現代における神なのかどうかが、問われるわけである。しかも、キリスト教になると、いつの日か最後の審判が訪れ、イエス・キリストが再び地上に現れて、人類全体を救うという信仰がある。シンギュラリティは、この救済に相当するものとして理解される傾向がある。あるいは、シンギュラリティが訪れることで、それは全知全能の神を冒瀆することになるのではという警戒感も生まれている。シンギュラリティの先には救済の希望などなく、人間はAIの奴隷になってしまうのではないかと強く警戒されるわけである。
そこからは、AIの使用に対して規制をかけ、暴走を防がなければならないという発想が生まれる。ハラリの指摘などは、まさにそうした一神教の文化を背景に生まれてきたものである。
多神教の日本と「モノ」に宿る神
それに対して、日本は基本的に多神教の国であり、私たちは八百万の神々を信仰の対象としている。その分、一神教の信仰はさほど社会に浸透していない。
明治以降、近代化の必要が叫ばれるなかで、キリスト教の信仰を取り入れるべきだという声も上がった。実際、キリスト教は教育や医療の分野を中心に大きな影響を与えてきた。海外から宣教師がやって来て、熱心な宣教活動も行われた。
ところが、キリスト教は日本で多数の信者を獲得するには至らなかった。現在、日本のキリスト教徒は人口の1%程度とされる。イスラム教になれば、教団を組織しないという特徴があるため、その数ははっきりしないのだが、キリスト教徒より少ないのは明らかである。
キリスト教徒とイスラム教徒を合わせても、総人口に占める割合が1%程度にしかならないというのは、世界を見回してみると驚異的に低い。あまり注目されていないことだが、他にそうした国は存在しないのである。
日本の神々は、一神教の神とは異なり、世界を創造する力も、堕落した人間を一掃してしまう力ももっていない。ときに祟ることはあるかもしれないが、その範囲は限られている。日本では、神々は自然だけではなく、モノにも宿ると考えられてきた。モノは、たんなる物質ではなく、意志をもって行動する主体として考えられているのだ。それは、機械に名前をつけるところにも示されている。日本人は、掃除ロボットや工業用ロボットにまで愛称をつけたりする。
AIを「神」ではなく
「仲間」として見る文化
そのような日本人の世界観は、AIにもおよんでいる。生成AIのChatGPTを、日本国内では「チャッピー」という愛称で呼ぶ人もおり、それは日常語になっている。何か問題が生じたとき、人々はチャッピーという相談相手に尋ねるのだ。ところが、海外にはそうした習慣はないようだ。ただ「GPT」や「Chat」と呼ばれている。チャッピーと呼ぶ場合、それを自分たち人間の知性をはるかに超えた存在、神のような超越的な存在ととらえることはない。むしろ自分の仕事を助け、相談事に乗ってくれる頼もしい相棒のイメージが強くなる。
モノに神が宿るという考え方は、戦後、日本が工業立国になるうえで重要な役割をはたした。機械を単なる物質としてはとらえず、慈しむべき存在と見なしてきたことは大きい。そうした感覚は、日本人がAIと付き合うときにも影響を与えているのである。
一神教の世界の人間は、AIが進化して自分たちの生存やアイデンティティーを脅かし、神をも否定するようになることを強く怖れる。だが、チャッピーに対してであれば、私たちはそうした怖れを抱くことはない。AIを神として崇めるのではなく、仲間として考えることは、私たちがAIをうまく使いこなしていくことに結びつくはずである。
ただし、チャッピーが仲間である以上、その役割は補助役に限定し、過度に依存してはならない。その判断を鵜呑みにして、安易に承認ボタンを押してはならないのだ。
「チャッピー、その判断で正しいのか? 間違いはないのか?」。
私たちは常にAIに対して、そう問い掛けなければならない。それこそが、私たちが古来培ってきた日本の伝統的な文化のはずである。
<PROFILE>
島田裕巳(しまだ・ひろみ)
作家、宗教学者、東京通信大学非常勤講師
1953年東京生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。
主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)、『日本宗教美術史』(芸術出版社)、『映画は父を殺すためにある』(ちくま文庫)、『小説日蓮』(東京書籍)、『プア充』(早川書房)、『0葬』(集英社)など多数。









