2024年12月22日( 日 )

東芝不正会計の源は、西田厚聰社長にあり(前)

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 昨年の“粉飾”決算発覚以来、迷走を続ける東芝。証券取引等監視委員会は歴代3社長の刑事告発を視野に入れて調査を進めており、東京地検特捜部による強制捜査、3社長の逮捕が現実味を帯びてきた。
 一方で、高値で買収したウェスティングハウス(WH)の減損など、東芝の財務が痛むのは必至の状況。債務超過に陥るのを阻止しようと、虎の子でもある医療機器分野や半導体の一部部門を売却してまでカネをつくろうとしている。この混迷をもたらした最大のA級戦犯は、東芝の社長、会長を歴任した西田厚聰氏である。

work 西田厚聰氏は1943年、三重県に生まれ、早稲田大政治経済学部を卒業し、東大大学院法学政治学研究科に進み、“岩波文化人”として知られた東大の福田歓一教授のもとで西洋政治思想史を学んだ。一時は政治学者を目指したようで、学生時代には岩波書店の雑誌「思想」に「フッサール現象学と相互主観性」という論文を寄稿したこともある。
 とはいえ、福田ゼミ関係者によると「学究の道を進むほどには優秀ではなかった」といい、同大学院在学中、イランから丸山真男教授の研究室に留学していたファルディン・モタメディさんと知り合い、美貌で才媛の彼女を追いかけ、パーレビ王朝時代のイランに渡った。彼女はイランの名家の出で、イラン資本と東芝が現地に合弁で設立したパース東芝に入社。その後、働きが認められて、31歳で東芝の正社員に勤務する。

 おそらくこうした経歴がバネになって、東芝入社後の西田氏はアグレッシブだった。学者として生きるには今ひとつのでき、しかも新卒一括採用が一般的な時代にあって、30歳を過ぎて名門企業・東芝に入社。同年代の社員に対して、一種のコンプレックスめいたものがあっても不思議ではない。だからか、「非常に仕事熱心だった」と東芝OBは言う。ときあたかも電子立国が喧伝され、日本の企業の海外進出が盛んになる時代。西田氏は英語が使えて海外生活経験もあることが重宝されて、東芝の海外営業畑を歩むようになった。

 人間、何が幸いになるかわからない。西田氏の場合、それは米国勤務だった。米国の東芝の子会社である東芝インフォメーションシステムズの社長をしていた際、その統括会社であった東芝アメリカの副会長をしていたのが、後に東芝の社長、会長を歴任する西室泰三氏(現・日本郵政社長)であった。ここで西田氏は、当時東芝が世界市場を席巻しつつあったラップトップのパソコン「ダイナブック」のセールスで、頭角を現していった。
 とはいえ、このとき東芝のパソコン部門は、日本語ワープロの開発者だった森健一氏(後に東芝テック社長)やダイナブックを開発した生みの親の溝口哲也氏(後にモバイル放送社長)が幅を利かせており、西田氏はあくまでも一介のセールス担当者に過ぎなかった。しかし、東大卒・重電畑出身者が続いた東芝で、「これからはグローバルの時代」と英語が巧みな海外営業出身の西室氏が96年に社長に就くと、取り巻く環境は一変。西室氏は自身の出身母体である海外営業出身者を盛んに起用し、その1人が西田氏だったわけだ。かくして、いつしか西田氏も「ダイナブックの生みの親」と僭称(せんしょう)するようになる。

 やがて西田氏は、パソコン部門などを所管する「PC&ネットワークス社」(社内カンパニーの1つ)の責任者に就任。西室氏が、岡村正氏に社長職を譲って会長に就くと、次第に「ポスト岡村」の最有力候補の1人に認められるようになった。もちろん西室氏の“引き”もあるのだが、それ以上に、西田氏がパソコン部門を立て直したと思われたことが大きい。

(つづく)
【ジャーナリスト・天喜 輿望】

 
(後)

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