九州古代史を思う(1)
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はじめに
魏志倭人伝とは、西晋時代の陳寿の「魏志」烏丸鮮卑東夷伝「倭人」の条の漢文による我が国にとっては非常に貴重な史籍であり、わずか2,000文字に記された文章の解釈を巡って、古くは江戸中期に新井白石、本居宣長らが解読を試みて以来、延々と論じられる歴史ロマンである。
陳寿の魏志倭人伝は第一部から第三部で構成されており、第一部の導入部に、倭国各地までの行程と地形を述べ、第二部に倭人の風土、生活模様、社会制度、第三部に中国との渉外、卑弥呼の死と台与(とよ⦅読みには異説あり⦆。卑弥呼の後継ぎとされる女性)について記されている。
陳寿が生きた時代を考証してみよう。彼は晋時代の人物。中国の古代年表を紐解くと後漢時代から三国時代を経て紀元300年ごろ、わずか50~60年の間に晋の年表が見える。彼がこの魏志倭人伝を記した時より少し前の紀元248年の倭国では、卑弥呼死して台与を共立すとあり、台与が倭の大夫をして魏に献上貢納した事を以って終わっており、日本側の歴史書には、その後に倭国から中国に対して使者を送るのはずっとのちの607年の小野妹子の登場まで待つ事となるとある。
しかし、中国側はその後もしっかりと、古代九州王朝を観続けていた。それが中国、随の時代までの間に二十四史の国書に歴然と記されているのである。この二十四史を解読する事が、真の日本史を学ぶと事となる。ただし、「万世一系の天皇制」を維持するために現代の官僚達は動くまい。
魏志倭人伝を記した陳寿は、倭国からの使者、語り部から聴取した事を東夷伝の「倭人」として記したもので彼自身が実際に行った紀行文ではないだろうと考える。
魏志倭人伝にみる倭国について
倭人伝の冒頭は、帯方郡から倭まで行くには云々で始まるが、中国側の出発点の記載がなく、現在のソウルの北方、北朝鮮領域あたりと言われる帯方郡を起点としている事にまず注目すべき点がある。
帯方郡から現在の釜山あたりと言われる狗邪韓国まで行き、対馬を経て一支国へ、さらに末蘆の国までは水上を行き、末蘆国から陸路を伊都国へ至る。倭人伝では「郡使往来常所駐」とあり、中国側の使者が倭国に来た時に常に駐在する所とある。
ここから解釈の仕方が異なってくるところだが、使者はここに留まって卑弥呼がいる邪馬台国へは直接行かずに、従者を倭国側代理人に託して報告を待つと言う形態を採ったと思う。魏志倭人伝に記述された日程、行程で邪馬台国の所在地を論議するのは如何と思い、ただ記述が、その当時の倭国の状況報告書いわゆる参考書として捕らえるべきだと思考する。こういった時代背景に基づき魏志倭人伝の邪馬台国を論じれば、伊都国より東南へ百里で奴国、東に百里で不弥国、この地点から放射線行程だ、いや直行行程だとか、各論者の身近な所へ持って行こうと、こじつけ論議が賑やかだが、陳寿の記述する民族とか地形は「倭人は、帯方郡の東南の大海の中の山の多い島に国や村を造っている、倭の地について色々考えると遠く隔たった海中の島々の上にあり、島々は隔たったり続いていたり、巡って行くと約5,000あまりである」と述べている。
すなわち、帯方郡から狗邪韓国までが7,000余里だから、自分の国から観れば島々の集合体であって、全体をあわせても小さな国と観ていたことが想像される。陳寿は実際に倭人と接触したのだろうか。
「倭人が海を渡って中国に詣でる時、いつも一人の者に髪に櫛を入れず、蚤(ノミ)も捕らず、衣類は垢で汚れたままにし、魚肉も食べず喪に服す人の様にさせるこれを“持哀”と名付け、その旅がうまくいけば生口や財物の世話をするが、病とか悪い事が起こればその者を殺そうとする」と言う地理地形や風習とは違った使者のみにしか知り得ない事を記述している点がある。
陳寿の記述は、記録による文献と語り部からの陳述に加えて以上の事を総合的に纏め上げたのが「魏志倭人伝」である。
(つづく)
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