九州古代史を思う~「倭奴国」から「日本国」へ(5)
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「魏志倭人伝」を読み説く(1)
魏志倭人伝を読み説いていきます。
【女王国への行程と主な国々】
倭人は帯方東南の大海のなかにあり、そびえ立った島に国をなす。旧百余国、漢の時に朝見する者あり、今使訳通ずる所三十国なり。
群より倭に至るには、海岸に循いて水行し韓国を経由し、しばらく南進し、しばらく東進して、その北岸狗邪韓国に到る。七千余里なり。始めて一海を渡る事千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居する所絶島にして、方四百余里ばかり、土地山険にして深林多く、道路は禽鹿の径の如し、千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し船に乗って南北に市糴(してき)す。
又、南一海を渡る事千余里、名づけて瀚海(大海の意味)という、一支国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり、竹木叢林多く三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず。また南北に市糴(してき)す。
又、一海を渡る事千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山の迫った海沿いに暮らす。草木茂盛し行くに前人をみず。好んで魚鰒(ぎょくふく)を捕え、水深浅となく皆沈没してこれを取る。
東南、陸行すること五百里、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚柄渠觚(しまこへきこ)という。千余戸あり、世々王あり、皆女王国に統属す。群使の往来、常に留まる所なり。
東南、奴国に至るには百里、官を兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。
東行して不弥国に至るには百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余戸あり。
南、投馬国に至るには、水行二十日。官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という。五万余戸ばかりあり。
【邪馬台国は女王が都とする所】
南に行くと邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。官に伊支馬(いくめ)あり、次を弥馬升(みましょう)といい、次を弥馬獲支といい、次を奴桂鞮という。七万余戸ばかりあり。女王国より以北は、その戸数や道里をほぼ記載できるが、その他の周辺地域の国々は遠く隔たり詳しくは解らない。
次に、斯馬国あり(中略 女王が統治する近境国名)次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。
その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひく)あり、女王に属していない。(つづく)
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