台湾でもっとも尊敬される日本人・八田與一氏の銅像、破壊される
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4月16日朝、台南市烏山頭ダムに設置されている日本人水利技師・八田與一(はった・よいち)の銅像が壊されているのを、同地を管理する嘉南農田水利会の関係者が見つけたと、台湾の現地メディアが報じた。
今回破壊された八田の銅像は、頭部の部分が首からもぎ取られており、右手の指にも損傷の跡が見られるという。現在、通報を受けた警察が捜査を進めているとされるが、壊された頭部は今のところ見つかっていないとのこと。八田與一の名前は、日本統治時代の台湾において、台湾の発展に貢献した者として真っ先にその名が挙がるほどで、台湾でもっとも尊敬されている日本人ともいわれる。
八田與一は1886年、現在の石川県金沢市で生まれた。東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職。当初は、台湾南部の各都市の上下水道の整備を担当した後、発電・灌漑事業の部門に移籍。28歳のとき、当時着工中であった桃園大シュウ(シュウ=土へんに川)の水利工事を一任され、これを成功させたことで高い評価を受けた。31歳のとき、当時16歳で同郷の米村外代樹(とよき)と結婚。
1918年、八田は台湾南部の嘉南平野を調査。嘉南平野は、台湾のなかでは広い面積を有していたが、灌漑設備が不十分であったため、この地域の田畑は常に干ばつの危険に晒されていた。そこで八田は台湾南部を流れる河川「曽文渓」の支流である官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を立案。20年9月に土木工事を開始し、30年4月10日に竣工した。
工事は、まず烏山頭ダムの建設から開始。その後、水路が開削されて曽文渓と濁水渓2つの水系を接続した。烏山頭ダムは、満水面積1,000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池であり、当時、東洋一の大きさを誇った。また水路も嘉南平野一帯に1万6,000kmにわたって細かく張り巡らされた。この水利設備全体のことを「嘉南大シュウ」(かなんたいしゅう)と呼ぶ。嘉南大シュウは台湾最大の灌漑水利工事であり、完成後は多くの農民がその恩恵を受けた。嘉南大シュウの完成後、八田は台湾総督府の勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。だが、太平洋戦争中の42年5月8日、フィリピンの綿作灌漑調査のため「大洋丸」に乗船した八田は、途中、アメリカ海軍の潜水艦により大洋丸が撃沈され死亡。56歳だった。また、妻の外代樹も日本敗戦後の45年9月、夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口にその身を投げた。
八田の名前は、日本よりも実際に功績を上げた台湾で広く知られている。それは残した功績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするために尽力したことや、危険な現場にも自ら進んで足を踏み入れたこと、さらには死傷者50余名を出した事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、八田の人柄による部分も大きい。
八田夫妻の墓は、八田の温情を偲んだ台湾の人たちにより、46年に烏山頭ダムの堰堤上に設置。同地には今回破壊された八田の等身大の銅像も設けられており、今でも八田の命日である5月8日にはこの前で慰霊祭が行われるという。八田の銅像は、一般的な威圧姿勢の立像ではなく、作業衣姿の八田が工事中に困難に一人熟考し苦悩する様子を模しているユニークなもの。ここからも八田の人となりが感じられる。
日本統治下の台湾において、日本人も台湾人も関係なく、民のために尽力した日本人技師・八田與一。彼のような偉大な日本人がいたことを心より誇りに思うとともに、彼の功績を多くの日本人にも知ってほしいと思えてならない。であるからこそ、今回の事件の発生を非常に残念に思うと同時に、事件の早期解決と銅像のいち早い修復を望みたい。【坂田 憲治】
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