災害危機管理への提言 1982年長崎大水害を体験して(前)
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いよいよ梅雨本番、これからの時期は梅雨前線の状況によっては一夜にして大洪水を巻き起こすような集中豪雨も降る、水難の季節である。脊振山系を写した美しいフォトエッセイを連載していただいている脊振の自然を愛する会代表・池田友行氏は、かつて1982年の長崎大水害を体験されている。その貴重な経験を語っていただいた。
昭和57(1982)年7月23日は忘れもしない長崎大水害の日である。
私が勤務していた九州ソニー販売(株)長崎営業所は長崎市矢上にある東長崎の卸団地にあった。倉庫をともなった営業所であり、市街地の電気店訪問をするのに必ず日見峠を越えて営業に出なければなかった。7月は販売会社としても多忙な時期であり、ダッシュセールのスタートの日を控えていた。私は福岡から転勤してから間もない36歳でであった。7月23日は営業に出ていた。午後4時くらいからバケツの水をひっくり返した様な物凄い雨が降り出し、延々と激しい雨が降り注いだ。何とか営業所に戻ると暫くして、帰宅途中の所長から私あてに電話が入る。『街は大水で大変なことになっている、社長の自宅の電話番号を教えるから一報を入れて欲しい』と言うものであった。言われるまま私は福岡の社長宅へ長崎の現状を伝えた。雨はますますひどくなり、隣の部屋のサービスセンターでは屋根の継ぎ目から雨が激しく漏り出したので、あわててサービス部品が濡れないようビニールをかぶせ、部品を移動するのを手伝った。
その後、営業所もサービスセンターも停電になった。電話だけは何とか卸団地の非常用バッテリーでつながっていた。
営業所の倉庫には商品のラジオ、乾電池、懐中電灯などがたくさんあったので、商品の携帯ラジオで水害の状況を把握する事が出来た。私は所長代理としての立場もあり、営業で外に出ていたセールスマンの安否確認に全力を尽くしていた。どうかセールスマンが無事であって欲しいと願うばかりで、電気店に営業社員が来ていないか電話を掛けまくった。この時、繁華街の浜の町は満潮とも重なり2m近く浸水していたのである。
外出しているセールスマンは6名。
まず喫茶店の2階に避難していますとN君から電話が入る。H君の実家に電話をし、安否状況を訪ねる。彼は自家用車で帰宅中に車が浸水し車に閉じ込められたと後で知る。W君は帰宅途中に買ったばかりの自家用車を浜の町の駐車場に入れていた。激流がその駐車場の扉を開け、彼の車は濁流と共に流れて行き、水が引くと商店街を塞いでいた。
郊外の野母崎にある電気店にいるO君に電話が繋がった。「長崎市内が水害で大変なことになっているから電気店に泊めてもらえ」と伝える。野母崎は大雨が降っていないのでO君は実情がわからず、「何でですか?」と言うほどだった。が、私は絶対に長崎市内に帰って来るな、命に関わると強気で命令した。
残り3人の安否確認が出来たのは、夜の9時ごろであった。あと一人M君の安否が確認できていない。翌朝まで待つ事にした。私は自宅に電話して「水と食糧を確保して」と家内に伝えたが、家の中にいた家内は外の状況が理解できていなかったのである。買い物に行かされた長男が、この日の事を作文に書いている。この状況を理解出来ていなかったのは家内だけだったようだ。自宅は郊外の長与町のマンションだった。
営業所には私を含めて男性3人、女性2人が取り残されていた。帰宅できずに営業所で一夜を過ごすことになる。
隣のサービスセンターでは男性3人が同じく夜を過ごした。女性にはソファーもある個室の応接間を割り振り、男性はそれぞれ営業所の椅子を並べ、商品の懐中電灯で天井に明かりを向けて夜を過ごした。情報はラジオのみである。水も食糧も無いままに一夜を過ごす事になるが、幸い倉庫にはダッシュセールス用に購入していた景品のビールがある。食糧はこれだけである、営業所で堂々とビールを飲んだ。
水洗トイレは停電で流れないので、私はゴミ入れの大きなポリバケツ2個を外にだし雨水を貯めた。翌朝にはポリバケツは雨水で満杯になり、洗面と水洗トイレ用に利用する事ができた。それくらい大量の雨が降ったのだ。この時ばかりはワンゲル時代に培った、山での知識が役に立った。(つづく)
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