【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(7)
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
福岡県知事選騒動~政治との出会い
僕が秘書に就任して2年目の平成2年(1990)、思いもしない展開が始まった。議長任期は多くが1年だったり精々2年だったりするなか、広太郎さんは政令指定都市の議長、全国市議会議長会会長に史上最年少で就任し、議長職も6年目を迎えていた。福岡県内や九州内の議長の間でも若いエネルギーへの期待とともに一目も二目も置かれる存在であり、いわばファンも多かった。随行する僕も鼻が高かったし、羨ましがられることも多かった。
各種の議長会の多くは、会議そのものは淡々と進むが、本番はその後の交流会だった。各市の議長さんたちはほぼ保守系無所属か自民党籍だったこともあり、翌年の福岡県知事選挙が話題にのぼり、当時革新県政と言われた奥田知事の3選の是非が多く語られていた。いわゆる保守系の候補が決まらず保革相乗りすら取り沙汰されており、基礎自治体の議長たちは、「いつも上意下達で、国会議員の思惑で候補者を落下傘のように決め、自分たちは選挙の道具としてしか扱われない。こんなことでは勝てるわけがない。保守は本来草の根であり、地方の自立が叫ばれる今、自分たち議長を含め市町村議員が中心になって選挙に臨めば必ず勝てる。自分たちが納得できる候補を見つけようじゃないか」というのが当初の話だったように記憶している。それが、「山崎がいるじゃないか」「あんたがやるのが一番いい」と、ミイラ取りがミイラになるのに時間はかからなかったと思う。それぞれのツテで知事候補に山崎氏をと働きかけたが、埒があかなかった。所詮、「県知事選挙に市議会議員風情が何をいうか」というのが正直なところだったと思うが、表面上は自公民の枠組みが必要で、自民党のバッチをつけている人物では理解が得られないなどと言われていた。かと言って候補の選定は進まず、県内の市議会議長の有志たちは、「我々市議会議長有志一同は望ましい知事像と勝てる知事選について協議の結果、若さと地方自治に精通しているなどの理由から山崎氏こそ候補の適任者として合意を得た」として、署名活動を開始するなどエスカレートしていった。
しかし、僕はずっと社会党支持だったし、自民党は嫌いだった。過去奥田八二さんに2回続けて投票していたし、いわゆる革新県政の継続に異論があるわけでもなかったけれど、議長さん方の動きなのでいろいろ連絡役をしているうちに、僕も次第にその流れに飲み込まれていった、というか、地方の自立と言われながら、国会議員の思惑ばかりが蠢めく政治の現実を目にして、だんだん自分のなかにも怒りが湧いてきて、自分自身を突き動かすようになっていった。広太郎さんからは、「あんまり深入りすると役所を辞めなくてはならなくなるぞ」と警告を発せられていたが、「ここまできたら放り出せませんよ」と返していた。
マスコミの取材も過熱してきていたが、僕が一番身近にいるものだから、スポークスマンみたいな役割もするようになり、僕はいつの間にか当事者になっていた。選挙の半年前、10月には県内22市612人の議員のうち、17市197人による山崎氏擁立の署名簿が自民党福岡県連に提出され、さらにその署名は町村議員にも拡大し、これら地方議員が選挙母体になることを誓うことが記されていた。その一方で県連の決定には従うとも付言されていた。
当時の県連会長・太田誠一氏は「自分と党本部の小沢幹事長に一任されている。静観していただき、結果が出たら協力してほしい」(H2.10.27 西日本新聞)とのことだったが、翌11月、県連の迷走に業を煮やしたように、党本部/小沢幹事長主導で総務庁大臣官房審議官であった重富吉之助氏の擁立を決めた。このことは、地方のことは地方で決めようと地方の自立を訴える山崎支持派にとっては火に油を注ぐ結果となった。
もともと広太郎さんの支持者の多くが、次は市長にと期待していたし、僕もそう受け止めていたので、県知事選挙への挑戦はどこか半信半疑のところがあった。僕もどこかで「市長選挙じゃないんですか」と聞いてみたことがあったと思う。当時広太郎さんは、「上意下達ではない、市町村議員中心の選挙」については、言い出しっぺでもあったし、ミイラ取りがミイラにもなっていたが、ことがことだけに、注意深く周りの状況を見ていたと思う。しかしこの中央主導の一件は、本人をしてルビコン川を渡らせることになった。
11月には市民球団誘致市民会議有志が支援を決議し、また福岡青年会議所も有志会として支援決議し、「元気で豊かな福岡県をつくる県民サークル21」という後援会組織も立ちあがり、外濠はどんどん埋まっていった。12月5日夜の長時間にわたる太田誠一県連会長の説得を振り切り、翌12月6日立候補表明(深夜自宅に戻った広太郎さんは朝までかかって、立候補の決意をしたためたが、これは実に魂を揺さぶられるような名文だった。大事に保管していたつもりだったが、いつの間にかなくしてしまった。広太郎さんは必ずしも演説はうまくはなかったが、名文家だったと思う。その後何度か節目のときに同じ経験をした)。
そして12月9日には自民党に離党届を提出するに至った(九州大学を卒業して門を叩いたのが自民党福岡県連、その後自民党本部では大平正芳政務調査会長の下で働き、5期20年自民党籍で市議会議員を務め、四半世紀にわたる純粋培養のような自民党員歴。その後2度と自民党に戻ることはなかったが、その折の自民党への怒りや失望、決別の思いいかばかりかと思う)。さらに、12月20日には、市議会議長のみならず、市議会議員、さらには全国市議会議長会長も辞職して、いよいよ退路を断った。本会議場での辞職の挨拶を終え、議場を後にする広太郎さんの後を追ったが、足早に議長室に戻り後任の議長選挙を見守った。
実は議長選は自民党が勝手に途中で投げ出すのだからと、さらには知事選をめぐる思惑の違いもあって、第2会派から選出する動きも在りで、多数派工作が厳しかったが、接戦の末自民党の南原勇一郎氏が第59代議長に選任された。29歳から5期20年在籍した議場を去るにあたってどんな想いだったのだろうか、感慨に耽る余裕もなかっただろうが、聞く由もなかった。そのとき、広太郎さん49歳、よくぞその歳であれだけのものを抱えたものだと改めて思う。その後何度も山崎広太郎という政治家の決断の場に立ち会うことになったが、すべてをなげうつ政治家の覚悟の凄まじさ、リスクの大きさ。1回の試験で定年までが保障される公務員の安定した立場との大きな懸隔。その1点において、政治(家)への敬意を失ってはならないというのは、僕の土台の1つとなっている。
そして、僕の山崎広太郎市議会議長の秘書としての仕事は終わった。後任の南原議長から呼ばれ、「君のことはよくわかっている。僕のそばにいたほうが何かと良いと思う。広ちゃんとは同期だから応援している。よろしく頼む」とのことだった。驚いたが、県知事選挙にどうやって関わっていくか、関わっていけるのか自問自答していたので、飛びつきたい思いが正直なところだった。しかし議会事務局長の判断は異動だった。しかも、1月という半端な時期なので局内での三角トレードで、僕は調査課調査第一係長となった。余波を食らって異動となったお二方には本当に申し訳なかった。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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