失われた古代九州王朝の歴史(2)
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古代の出来事を一つ一つ紐解いていくと、点が線となって見えて来ます。
まず、その事例の一つとして、中国光武帝より印綬された“漢倭奴国王”の印。
西暦57年の「後漢書」に、「倭奴国から貢物を持った使者が来たので、時の光武帝が金印を授けた」とあります。
「漢倭奴国王」を何と読みますか。
皆さんは、学校で「漢の属国である倭国の一地方の奴国王に金印を授ける」
と教え込まれたことでしょう。この倭国とは近畿大和王朝を指すそうです。
しかし、先ほどの「後漢書」の中に、はっきりと「倭奴国からの使者」と記述されているではありませんか。倭奴国は近畿大和とは言えません。
中国の皇帝は、一地方の支配者に「金印」は授けません。「倭奴国」は、区切って読むべきものではなく、れっきとした「一国」だと理解すべきです。
では、何故この時代に中国の存在を知り、使者を送ったのでしょうか。もし近畿大和王朝が送ったならば、何故記録として残さなかったのでしょうか。答えは、この時代、近畿大和王朝なんて存在しなかったのだ、ということです。
この「金印」の読み方は「漢の属国である倭奴国王に金印を授ける」です。
金印は、なぜ志賀島で発見されたのでしょう。この沖ノ島の国宝級の遺産はどこからきたのか。古代魏志倭人伝に登場する「倭奴国・倭人」の所有遺産が、何らかの外部の理由で破壊・没収され、沖ノ島に一時集積され、他の地へ移送されたのではないかと思うからです。
加えて、古事記・日本書紀に出て来る「筑紫の君・磐井の反乱」。
後に詳しく述べさせて頂きますが、この記・紀に継体天皇のとんでもない記述があるのです。
また、「正倉院の移築疑惑」。これは太宰府にある「都督府・太宰府政庁」がいつ建造され、いつ・何のために・誰の手によって壊されたのか。現地の案内板には、大和朝廷の出先機関だと書かれているのに、これらのことは日本書紀・古事記に、一切出てきません、この謎は何なのか。
また跡地の隣に現存する観世音寺から移築されたのではとの説など、沖ノ島が古代より北部九州に存在した文化財宝の地として扱われるならば、現代の日本史として教育されている「紀元前より7世紀までは、文字も持たない文明が存続し、時折中国と交流していて、現天皇家が2,600年も継続している」という歴史認識が残るだけです。紀元前から紀元7世紀まで九州古代国家が存続した事実が、さらに薄れていくのに怒りを禁じ得ません。(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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