2024年12月20日( 金 )

失われた古代九州王朝の歴史(7)

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 司馬遷の「史記」の徐福に関する記述の最後は、男女三千人を遣わし、五穀の種を持たせ多くの職人技術者を伴わせたが、帰国する事は無かったとして終わっています。
 この「史記」の後の正史にあたる「漢書」伍被伝、また「三国志」呉王伝、そしてまた「後漢書」東夷伝のそれぞれに徐福の記述が登場し、彼らが留まった地名として、「夷州(いしゅう)」「亶州(たんしゅう)」を挙げています。ですが、この2つの地名はどこを指すのか、これも歴史の謎とされているところです。
 一説によると、「徐福は、済州島の朝天浦に船を止め、西帰浦を経て日本に渡った」とされています。とすると、夷州は済州島、亶州は西九州とみることができます。

 稲作の伝来により、狩猟中心の縄文社会から、一定の地に定住できる、米を中心とする食料を人の手で生産する農耕生活が始まります。四季の変化を考慮した食料生産が営まれ、育成から収穫、そして貯えのための高床倉庫が造営され、本格的に農耕社会へと移り変わり、人口の増加とともに村と村が形成されます。この社会の変化が、「魏志倭人伝」に登場する百余りの国とつながって行くのでしょう。
 徐福より四百年後の邪馬台国の卑弥呼が古代日本国家の始まりではなく、この徐福こそが古代日本の始まりだったのではないでしょうか。史記などの文献、吉野ヶ里にみる墳墓・出土品、どれをとっても渡来人であることが証明できる物ばかり。古代日本の本当の“ルーツ”と思います、中国の“風水思考”を取り入れた国づくりが、のちの太宰府にもその思想で見出されます。

 「日本書紀」や「古事記」には、「徐福」の名前すら登場しません。この古代史の盲点ともいえる「徐福渡来」を、多くの方々が発表されていますが、いまだにただの伝説として葬られているのが残念ながら実情です。この伝説とされている事柄の真実が解明できればと思います。

 始皇帝が不老不死を切望している事を利用し、西九州から上陸し、佐賀平野吉野ケ里に中国文明を持ち込み、狩猟民族から五穀によってその地に定着した国家をつくり上げた徐福。彼の生涯を解明することが、日本古代史の本当の夜明けであることは間違いありません。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。

 
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