義援金200億円に見る、日本と台湾の距離!(2)
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台湾在住の作家・木下 諄一 氏
インターネットで最初にアクセスしたのは外交部
――200億円というのは、とても大きな金額です。その出どころの調査は大変だったと思います。具体的にどのように進められたのですか。
木下 最初にやったことはプロット(簡単な物語のあらすじ)づくりです。その後、それに基づいて、情報収集を行いました。当時、私の住んでいたところから、歩いて2、3分のところに台北市立図書館の本館がありました。そこで、まず当時の新聞が「この義援金のことを、どのように報じていたか」を調べるために図書館に向かったのです。ところが3.11から2年以上経過していたので、当時の新聞はほとんどありませんでした。唯一、台湾で最大部数を誇る『自由時報』だけが当時のものを完全なかたちで残していました。3.11発生から1カ月、2カ月後頃までの新聞をつぶさに見ていき、必要なものをコピーしました。
図書館を後にしてから、『自由時報』だけでは公正に欠けるので、インターネットなどを駆使して、『中国時報』、『聯合報』、『蘋果日報』などはもちろん、当時のあらゆる新聞・雑誌で同じ作業を繰り返しました。またインターネットで最初にアクセスしたのは外交部です。「どれぐらいの人が、どういう窓口で、どれだけ寄付したのか」を調べました。その結果は下記の通りです。
90%以上の義援金はすべて民間から集められた
ここでは、新しい発見がありました。義援金の総額は68億5,419万元で日本円に直すと現在のレートでは約250億円、当時のレートでも200億円を大きく超えています。そして注目していただきたいのは、そのうち政府が外交政策として出した義援金は7億6,975万元で、10%に満たないという事実です。残りの90%以上の義援金はすべて、民間から集められたということになります。すなわち、民間の人たちが、自分の給料とか、お小遣いの中から、自分の意志で出したお金ということです。これは、とてもすごいことだと思いました。そう思って改めて当時を思い出して見ると、たしかに台湾全土のありとあらゆるところで、募金活動が行われていました。主だったものを挙げてみます。
【学校】多くの大学キャンパスで募金活動が行われました。その中心となったのは日本語学科で学ぶ学生です。中にはパフォーマンスとして和服を着用して「日本を助けましょう」と呼びかけていたキャンパスも複数ありました。また、小・中学校でも、先生の指導のもとに、自分のお小遣いの中から募金をしました。チャリティーも行われ、その売り上げも募金に加えられました。また、募金のほかに、鶴を折ったり、励ましのカードを書いたりして被災地に届けました。
【職場】多くの職場で「1日の給料を募金しましょう」という運動が行われました。また、
台湾全土の自治体では、行政の長や議員が率先して多額の寄付を行い、並行して「みんなで寄付しましょう」と住民に呼びかけました。【テレビ】1週間に3回「特別番組」が組まれました。馬英九総統(当時)、台北市長、行政院長など政府幹部や若者に人気のある、俳優、女優、タレント、コメディアンが総出で「日本を応援しましょう」と一般視聴者に募金を呼びかけました。
そのほか、ロータリークラブではチャリティーオークションを開催しています。また台湾で有名なボランティア団体の「慈済」は約50億円を「親手発放」(物資は必ず自分たちの手で直接被災者に届ける)の原則に従い、被災地・東北に直接届けました。個人で10億円を寄付したのは、エバーグリーングループ総裁(当時)の張栄發氏です。張総裁はグループ傘下の企業には各種救援物資を提供するように指示、被災地までの輸送と搬送を無料で行うようにと命じました。
市内などのレストランではチャリティーメニュー「このメニューの売り上げはすべて被災地に寄付します」をつくりました。そうすると、ほとんどのお客さんが、そのメニューを注文、食べた後、またもう1つ注文、帰り際にはお土産用に、さらにもう1つ注文をしていきました。
台湾全体に、サッカーのスタジアムで、見られるようなウェーブが巻き起こっているようだった。そのうねりは時間の経過とともに、どんどん、大きくなり、何もかもが巻き込まれていく。
(『アリガト 謝謝』第1章64頁)
当時、日本の某テレビ局が台湾人を対象に行ったアンケート「どうしてこんなに義援金が集まったと思いますか?」では、80%以上の人が「921」時の日本の対応を挙げています。
「921」とは、1999年9月21日深夜に台湾中部で発生したマグニチュード7.6の大地震の通称です。震源地は南投県集集で死者2,400名、負傷者11,000名の被害がありました。この時、日本は地震発生当日、他国に先駆けて145名の救助隊員を現地に送り、40億円近い義援金や約千戸の仮設住宅を送りました。(つづく)
【金木 亮憲】<プロフィール>
木下 諄一(きのした・じゅんいち)
1961年愛知県生まれ。東京経済大学卒業。商社勤務、会社経営を経て台湾に渡り、台湾観光協会発行の『台湾観光月刊』編集長を8年つとめる。2011年、中国語で執筆した小説『蒲公英之絮』(印刻文学出版社)で、外国人として初めて、第11回台北文学賞を受賞。
著書にエッセイ『随筆台湾日子』(木馬文化出版社)、『アリガト 謝謝』(講談社)など。関連記事
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