2024年12月23日( 月 )

福博開発の主役を担った太田清蔵一族~多様な運命を歩み開発の主役は福岡地所に

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 日本トップクラスの成長力を有する街に成長した福岡市。源流をたどると100年前の財界の巨人2人にたどりつく。博多部発展の基礎をつくった4代太田清蔵と天神地区の大通りにその名を遺す渡邉與八郎。福博の将来への危機感を共有していた2人は時に協力しながら起業やインフラ整備を行った。それぞれが経営した路面電車会社はその後、合併し現在の西鉄となる。

 太田家と渡邉家の一族は現在、太田家は博多(九州勧業(株))、渡邉家は天神(紙与産業(株)など)でオフィスビルや駐車場経営を行っているが、両家の一族は異なる道筋をたどっている。象徴されるのが西日本渡辺ビル(西日本新聞会館ビル)だ。

 紙与不動産(株)と西日本新聞会館の共同ビルである同ビルには(株)博多大丸が店子として入居している。(株)博多大丸はもともと、4代太田清蔵の長男5代太田清蔵が九州勧業(株)と(株)大丸(現J.フロント リテイリング(株))との共同出資で設立したもの。その後の大丸の増資で九州勧業の出資比率は下がったが、現在も一定の株式を有する。

 博多大丸は当初呉服町に出店していたが、立地の悪さや競合の多さなどで苦戦。後に天神地区の西日本渡辺ビルへの移転で苦境を乗り切った経緯がある。呉服町での出店は5代清蔵が先代の宿願成就にこだわったことに起因する。また4代清蔵の一族は長男5代清蔵ら多くが東京に移り住む。再建を依頼された東邦生命(第一徴兵保険)の経営に力を注ぐためだ。

 東邦生命は4代清蔵が手がけた事業のなかでも最大にして最高の成功事業だが、6代清蔵の放漫経営などにより、あっけなく破綻した。福岡で長く活動したのは4代清蔵の4男清之助氏だが、博多から天神への移転など博多大丸の防衛に年月を費やした。またその子、誠一氏は大学教授をしていたが政界進出。その過程で相続した不動産は売却した。九州勧業は東京に在住していた4代の2男一族が経営を引き継いでいる。

 一方の渡邉一族は東京移住や政界進出は行わず不動産業に専念し、手堅い運営を続けている。
 九州勧業は博多大丸の出店以降、デベロッパー的な動きを停止する。現在、鉄道系を除けば福岡でデベロッパーとしての役割を担うのは福岡地所のみとなっている。

 太田一族の不動産の多くを東邦生命が引き継いだことで破綻を契機に手放すこととなった。九州勧業が保有していたヨドバシカメラの「マルチメディア博多」はゼネコン鹿島への売却を経て97年に東邦生命に売却された。東邦生命の破綻はその2年後だ。移転前の博多大丸の店舗ビルも東邦生命の所有だったが、破綻後は福岡地所に売却された(その後三井住友信託銀行に信託)。まちづくりの主役がバトンタッチされた象徴的な事象といえる。

 現在も九州勧業は博多駅周辺に15の不動産資産を有し、相応の賃料収入を得ているが、東邦生命らが手放した不動産資産は膨大だ。これらを東京人の6代清蔵が絶対的な権限を有する東邦生命に委ねたことが、その後の一族の事業運営の手法を決定づけた。それが後に壮絶な苦労の果てに海外からテナントを呼び成功につなげた福岡地所との差となった。

【鹿島 譲二】

 

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