福岡市繁栄の礎築いた元祖デベロッパー、役割終えて「家主」業で生き残る(後)
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太田一族
博多大丸を天神に移し存続に道筋つけた清之助
清之助氏(1909年生まれ)は4代清蔵の4男。福岡高校から九州大学農学部に進みサッポロビールの前身に入社するが、兵士として広島に配属され終戦を迎える。原爆投下時は爆心地の数km先にいた。奇跡的に生き残ったことで誠一氏、輝幸氏を授かった。誠一氏は広島で生まれている。
兄らは東京に住んだが生涯のほとんどを博多で過ごした。香椎で農園経営などを手がけたのち、1950年に東邦生命で、福岡支社ビル建設を担当した。2年後の博多大丸設立にともない常務に就任している。65年に専務就任。72年には店舗の天神移転を望む声が従業員から高まり、労働組合からも天神へ店舗移転の要望書が出されている。49年に天神移転が実現。この年、取締役会長に就任している。
当時の博多部の百貨店の運命を見ても、清之助氏らによる天神移転の決断がなければ博多大丸は消滅していた可能性が高い。渕上百貨店は火災で閉店。中洲の老舗・玉屋は行政を巻き込んだオール福岡が支援を試みたにも関わらず破産した。
清之助氏が移転を決断した時期はオイルショックにより建築費が高騰するなど不測の事態が発生した。それでもリスクを取って天神進出を実行。現在の博多大丸は大丸本体からの増資により九州勧業の出資比率は20%弱まで低下しているが、岩田屋が三越伊勢丹HDの完全子会社となったことで、地元資本が入る唯一の百貨店として営業を続けている。
清之助氏が業績面で苦戦する博多大丸の経営に忙殺されたことで、経営者としての実力を図るのは困難だ。息子誠一氏の回顧によると5代清蔵とは16歳違うこともあり自由な生き方を許されたようだ。4兄弟で唯一博多で長く活動しただけに将来の担い手としての薫陶を受け、九州勧業の経営を任せていればその事業展開はどうなっていたか。
資産売却し政界活動を貫いた誠一氏
清之助氏の長男・誠一氏は福岡大学経済学部の教授を務めていたが、反対する清之助氏を説き伏せて政界に進出する。誠一氏の妻は亀井光元知事の娘。清之助氏も大蔵大臣などを務めた桜内幸雄の娘と結婚しており、いわば必然の出馬だった。
79年の第35回衆議院議員選挙では落選するが、80年の第36回衆院選では自民党公認で初当選をはたす。以後、衆議院議員を8期務め、農林水産大臣や総務庁長官などの要職を歴任した。09年の第45回衆院選で落選し11年2月、政界引退を表明。
晩年の清之助氏にとって、誠一氏が政界で要職を担ったことが何よりの喜びだったという。相続した博多区比恵町の不動産は売却し政治活動に充当したと見られる。誠一氏は現役時代、失言など失点もあったが、糸島市長を2期務め、同市を飛躍させている月形祐二市長は誠一氏の秘書として政治を学んだ。誠一氏の政治家としての功績ではないだろうか。
清之助氏の次男・輝幸氏は、三井不動産を経て九州勧業に入社。ホテル日航福岡発足時には常務に就任。2004年からは社長を務め15年5月より九州勧業でも 社長を務めた。昨年から2社の会長を務める。
元祖デベロッパー4代清蔵が完成を夢見たターミナルビルは、望んだかたちで結実しなかったが、まちづくりでの盟友・渡辺與八郎の一族が運営するビルの店子となって博多大丸として現存する。貸ビル以外で唯一まちづくりに寄与したホテル事業は連続黒字を継続する力をつけたが、多店舗化する環境にない。
博多絹綿紡績工場跡地をキャナルシティとして開発した福岡地所は、その成功を機にデベロッパーとしての地歩を築くこととなった。
博多の優良不動産の多くを東邦生命が引き継いだこと、地元で開発意欲をもつ経営者を育成しなかったことが、今日の路線を決定づけた。
(了)
【鹿島 譲二】法人名
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