2024年12月23日( 月 )

中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(10)~常勝チーム・ホークスへ

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“世界の王”を監督に――

 1989(平成元)年、福岡ダイエーホークスは杉浦忠氏がチームを率いた。2年目からは田淵幸一氏が監督に就任したが、田淵時代も3年間Bクラスに止まる。田淵氏の次に監督に就任したのは、根本陸夫氏だった。根本時代もチームは浮上できず、Aクラス入りをはたすことができなかったが、強いチームの基礎づくりに貢献した。
 そして95年、ついに“世界の王貞治氏”を監督に招へい。ここからホークスは、今のような常勝チームに向けて歩を進め出した。

 実は、球団経営を現地で実質的に指揮していた中内氏の次男・中内正オーナー代行は、田淵監督の次の監督として、阪急ブレーブスの黄金時代を築いた上田利治氏を予定していた。だが、中内オーナーの意向で、根本氏が監督に就任した。
 根本氏は、西武ライオンズの監督として辣腕をふるった“業界の寝業師”の異名をもつ。ところがオーナー代行は、この根本氏の起用に反対していた。当時の福岡は、依然としてライオンズファンが多く、ライオンズを率いた根本氏を監督として招へいすることは、ホークスを地元球団として浸透させていくという考えに逆行するものだ――と考えたからだ。しかし、中内オーナーから「王さんを監督として迎えるための布石だ」と言われれば、納得するしかなかった。

 “世界の王”が新生ダイエーホークスの監督に就任すれば、その効果は計り知れない。実は、中内オーナーは、球団を買収したときから、王氏を監督に迎えたいと望んでいたようだが、できたばかりの弱小チームに王氏が来るはずもないと関係者から説得され、機会を待っていたようだ。
 その機会を、根本-王ラインで実現するとなれば、中内オーナーにとっては願ってもない好機と考えたに違いない。

11年目の初優勝

 こうして、ホークスの王監督が現実のものとなったのだ。“世界の王”の監督就任に、地元福岡では大きな期待が寄せられた。
 しかし、就任1年目は5位、2年目は最下位と振るわない。この年5月には、最下位と低迷するホークスに怒ったファンが、近鉄戦に負けて球場を後にしようとする選手バスを取り囲み生卵を投げつけるという事件まで起きた。結局、この年は最下位、3年目は4位、4年目には3位まで浮上。
 そして、ついに5年目の99年、ホークスは初のリーグ優勝をはたした。福岡ダイエーホークス11年目にして、初の優勝を飾ったのだ。そして、リーグ制覇の勢いのまま、日本シリーズではセ・リーグの王者となった中日ドラゴンズを4勝1敗で破り、日本一に輝いた。

 翌年もホークスは、リーグ優勝をはたす。そしてその後も、常に優勝に絡む常勝チームとして、パ・リーグを牽引するチームに成長したのだ。

ドーム開業年は246万人を動員

 チームの順位が上がるに従って、ドームの観客動員数も増えていった。

 1年目の89年の入場者数は、約125万人だった。順位は4位と振るわなかったが、それでも南海ホークスの前年入場者数の約92万人と比較すると、33万人も増えたことになる。
 それからも、ホークスの入場者数は着実に増えていき、福岡ドームが完成した93年には約246万人、初優勝をはたした99年には約239万人を記録した。これは、パ・リーグでは飛び抜けて多い数字だ。
 その後、ホークスの入場者数はさらに増え、03年には約323万人と驚異的な数字を上げるなど、パ・リーグで最も観客を動員できる人気球団となった。

 この数字は、セ・パ両リーグを合わせても、ジャイアンツにつぐ数字である。地方の球団がこれだけの実績を上げたことは、ホークスの選手たちにとっても大きな力となったに違いない。
 また、野球観戦に人が集まることで、さまざまな産業がその恩恵を受けた。地元の球団として、福岡・九州に浸透した結果だといえるだろう。

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福岡3点事業の再建

 ツインドームシティは、福岡に大きな経済効果をもたらした。しかし、1,500億円もの巨額な投資(当初の計画では2,600億円と見積もられていたが、計画の見直しにともない減額)と、それにともなう銀行借り入れの返済は、経営を圧迫した。当初から赤字を抱え、「返済は無理ではないか」と囁かれるほどに赤字も増え、銀行からも改善を迫られるなど厳しい立場に立たされていた。
 ダイエーからも年間15億円の広告費が出ていたが、経営が悪化し始めた本体としても、支援するのが厳しくなっていった。

 そこで中内オーナーは、「福岡ドーム」「シーホークホテル&リゾート」「ホークス球団」の福岡3点事業の再建のために、高塚猛氏を招いた。
 高塚氏は、リクルートで実績を上げ、経営難に陥っていた盛岡グランドホテルの再建要請を受けたリクルート創業者の江副浩正社長の命を受けて、総支配人として赴任すると1年で黒字化し、見事にホテルの再建をはたした。

 中内氏は、こうした高塚氏の活躍を知っていた。中内氏は江副氏と親交があり、リクルート事件後の92年、江副氏が保有株式を中内功氏に譲渡したことで、リクルートはダイエーグループに入った。その関係で、中内氏は高塚氏に興味をもっていたようだ。

 中内氏は、高塚氏の手腕を見込み、福岡3点事業の再建を託した。

 高塚氏は当初、福岡事業の会長として迎え入れたいという中内オーナーの申し出を固辞し、福岡で指揮を執る中内正社長を補佐する副社長として福岡に入る。高塚氏は依頼を受ける際、次のような条件を中内オーナーに対して提示したという。

・呼ばれたら行く。しかし、自分から中内会長のところには行かない。
・中内オーナーと話した内容は、すべて正社長に報告する。
・正社長が自分を連れて行くときは会うこと。
・無給で働く

 高塚氏は、福岡事業の責任者である正社長の補佐に徹しようとしたのだ。そのうえで、思ったことをいえるよう、無給を志願した。

5億円を捨てる!?

 こうして99年4月20日に高塚氏は福岡に入り、着任そうそう、改革に向けての活動を始めた。
 高塚氏は朝早くから夜遅くまで現場を回り、社員、アルバイトを問わず話しかけてコミュニケーションを図り、現場の状況を把握していった。しかも、現場に入ってスタッフと一緒に働くのだ。レストランでは客のテーブルから食器を下げたり、夜遅くにはエレベーターの電源を切って回ったりと、縦横無尽に動き回る。
 こうした率先垂範する高塚氏の行動を見て、最初は反感を示していたスタッフも、いつの間にか高塚氏を支持するようになっていった。

 高塚氏は正社長を支えながら、事業再建に向けてさまざまな改革を進めた。その1つが、福岡ダイエーホークスのロイヤリティの開放だ。
 当時、ロイヤリティ収入は年間5億円を上げていたこともあり、社内からは反対意見しか出てこなかった。しかし、「ロイヤリティを取っている間は地元球団にはなれない」と、高塚氏は思い切って捨てたのである。ロイヤリティを開放すれば、デパートや商業施設、飲食店、商店街など、さまざまな場所でホークスを応援してもらえるようになる。キャンペーンなどと組み合わせると、その発信力は、自社で金をかけて広告を出すよりも、よほど大きな効果が期待できるというわけだ。
 こうした発想は、社内では誰も考えていなかったし、プロ野球界でもそんなことをやろうとする人はいなかったはずだ。5億円のロイヤリティ収入を捨てても、十分すぎるほど元が取れる、と高塚氏は考えた。

街中にホークスが浸透する

 さらに、「勝ったら企画」を打ち出した。ダイエーホークスが試合に勝ったら、「ビール1杯サービス」「焼鳥1本サービス」といった企画である。ホークスが勝てば、割引を受けたお客が喜び、店も客が増えて売上増につながる。そして、店のなかでは、ホークスの話題で盛り上がる。
 当初、1,000件ほど集まった協賛店はどんどん増え、やがて3万店にまで膨れ上がった。業種もさまざまである。街中でホークスの応援歌が流れ、日常の話題としてホークス選手やホークスの勝敗が上るようになった。

 ロイヤリティを開放することで、街中にホークスのポスターやグッズが溢れ、ホークスが地域に受け入れられるようになる。これは、中内オーナーが目指していたことと同じだ。中内オーナーも福岡ダイエーホークス設立時から、「ホークスはダイエーのものではない。福岡市民のもの」と繰り返し訴えてきた。そのため、熱心に企業を回り、地元に受け入れられるよう努めた。

 89年7月13日、中内オーナーは、博多を代表する祭り「博多祇園山笠」の集団山見せで「台上がり」までやってのけた。台上がりは、山笠の前後にある「台」のうえに座り、舁き手を激励し、山全体の指揮を取るもの。非常に名誉なこととされるが、勇ましい祭りだけに、危険もともなう。67歳の身には、少し辛いものがあったことだろう。しかし、地域に根付いてこその事業であるという思いが、体を突き動かす。中内オーナーの「何としても球団を地元に根付かせたい」という気迫が伝わってくる。

11億円の営業赤字が33億円の営業黒字に転換

 中内オーナーのこうした思いを高塚氏は、ロイヤリティの開放や「勝ったら企画」などで実現していく。
 高塚氏はほかにも、これまでに考えられなかった、地元の人に泊まってもらう宿泊プランなどを企画するなど、さまざまなアイデアを繰り出す。2軍の試合を福岡ドームで開催したのも高塚氏である。試合当日は、社員や周りに協力してもらい、1軍の試合と同様に、ドームをファンで埋め尽くす。晴れの舞台で試合ができる喜びを感じた選手たちは、これまで以上に奮起する。ホークスファンも2軍選手の成長を見ることができる。台湾での公式戦を発案したのも高塚氏だった。

 高塚氏は、自分でも率先垂範するが、スタッフのやる気と能力を引き出すことにも長けていた。スタッフの意見を聞き、改善や企画に生かす。チャンスや権限も与える。下を向いて仕事をしていたスタッフも、いつしか高塚氏に魅せられ、上を向いて仕事をするようになる。社内の人事交流も活発にし、3つの事業が相互に連携し合い、最高の効果を発揮できる仕組みと環境をつくり上げた。

 正社長は、高塚氏が思い通りに仕事ができるよう、環境を整備してくれていた。正社長を近くで見ていた元幹部は、「正社長は聡明な人で、若いながらも仕事ができた。海外の人脈も豊富だった。福岡ドームに海外から有名タレントを呼んだり、大きなイベントを開催したりしたが、正社長の力が大きかった」と語る。

 正社長と高塚副社長は、お互いの得意分野を生かしながら、事業再生の道を上がっていったのだろう。

 高塚氏が福岡にきた99年春、福岡3点事業(ドーム、ホテル、球団)は11億円の営業赤字を出していたが、01年2月末には33億円の営業黒字を出すまでに業績を回復させた。福岡の3点事業は見事に復活し、銀行の評価も高まった。

(つづく)
【宇野 秀史】

 
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