2024年12月24日( 火 )

東京大学吉見俊哉教授に聞く~非日常が『日常化』した現在のアメリカ社会!(2)

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東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授 吉見 俊哉 氏

日本の大学と米国の大学では、仕組みがものすごく違う

 ――目から鱗のお話ばかりです。ここで少し、話題を転じ、本来の目的であった、ハーバード大学に関して教えてください。

 吉見 私の当初の渡米目的はハーバードの教育を内側から観察することでした。私は2017年の秋学期には、EALC(東アジア言語文明学部)の大学院で「日本のメディア研究」という科目を、2018年の春学期には、同じEALCの学部で「アメリカ・イン・ジャパン」という科目を担当しました。

 授業を通して一方で感じたのは、学部の授業でも、大学院の授業でも、学生の知的能力という点ではハーバードと東大に差はあまりないということでした。ですから学生のレベルは、ハーバード大学が世界のトップならば、東京大学の学生のレベルも間違いなく世界のトップレベルにあると思いました。

 しかし、大学についての考え方や教育体制では、東京大学とハーバード大学、というか日本の大学と米国の大学では、「ものすごく違う」ことを実感しました。日本の大学は、アメリカの大学が当たり前のようにできていることを、いまだに実現できていません。しかも、ここ数十年間で日米の差は縮まるどころか広がったように思います。

 日本ではこの間、大学設置基準の大綱化や大学院重点化、公立大学法人化といった改革政策が施行されましたが、これらは結果的に教養教育の解体や大学院修了者の就職難、分野による格差拡大と若手研究者ポストの不安定化を生じさせ、総じて大学教育の質を低下させました。日本の教育改革は失敗を重ね、アメリカに追いつくどころが、差をあけられたわけです。今や、韓国、中国、シンガポールにも追い上げられ、抜かれています。

シラバスは授業(ドラマ)の教師と学生の共有シナリオ

 日米の大学では、1つひとつの科目のつくり込みの厚さ、作り込んだものを学生に徹底的に学ばせ、消化させていく組織体制に「天と地ほどの違い」があります。まず「シラバス」です。日本の大学のシラバスは、多くは1ページ程度ですから、1時間で書けてしまいます。15のテーマを挙げる、参考文献を数冊挙げる、そして全体の概要を書けば完成です。

 一方、アメリカの大学のシラバスは、10数ページにおよび、1回、1回何をやり、その狙いは何か、参考文献はそれぞれの回で何を何頁から何頁までを読んでくるのか、成績はどうやってつけるのかなど、克明に書かなければなりません。私は作成にそれぞれの科目で1週間を要しました。ハーバードの同僚に聞くと、皆口をそろえて「シラバスは学生との契約書」と言いました。教師はシラバスで提供する授業の内容を詳細に示し、学生はそのシラバスを見て授業の受講を決める。その時点で両者は契約を結んだことになります。教師も学生も違反はできません。教師が契約内容を変えて、別のことを教えるのはご法度ですし、学生も契約通りにレポートを出さなかったら落第となります。別の言い方をすれば、シラバスは、授業というドラマの上演に際し、「教師と学生が共有するシナリオ」なのです。

 もう1つ、TA(ティーチング・アシスタント)の役割が決定的に違います。日本のTAは、担当講師のお手伝いの域を出ません。一方、アメリカのTAは、大学院生がプロの大学教師になっていく初期キャリアとして明確に位置づけられています。2018年の春学期の学部の授業「アメリカ・イン・ジャパン」は週に3回ありましたが、私が担当するのは2回、1回はTAが授業を担当しました。私は、その回にはそもそも授業に出ていきません。つまり、TAは学生というよりも教員の機能の一部なのです。また、私の2回の授業においても、討論が起こるとその議論の船頭役をはたすのはTAで、私ではありません。教授はそれを背後から見渡して必要に応じて指導を行います。つまり、討論の現場では教授以上にTAの存在が重要で、だからこそスリリングなアクティブラーニングが実現するのです。

学生が1学期に取得する科目を半減させれば解決する

 では、なぜ日本の大学教育は、一向に国際標準の教育体制にならないのでしょうか。問題の根本は、日本の大学では、1人の学生が1学期に履修する科目数が圧倒的に多すぎることにあります。それと相関して、1人の先生が教える科目数も多すぎます。ですから問題解決の1-1番地は「学生が1学期に取得する科目を半減させる」ことです。

 日本の大学では、国公立も私立も、学生は1学期に約10‐12の科目を履修します。一方、アメリカは約4‐5科目が平均です。世界のどこの大学でも卒業に必要な総単位数はだいたい同じです。ですから、日本では1科目1-2単位なのに対し、アメリカは1科目4‐6単位になっているのです。日本では科目があまりにも細分化されているので、これは大学というよりも実質は高校の教育のようです。各科目が軽いので、履修科目を1つや2つ落としても、卒業できます。ですから、学生たちは厳しい科目を「捨て」、楽な科目だけを残して卒業していくのです。そんなこと、アメリカの大学では絶対にできません。

 文科省の指導にもかかわらず、日本の大学生の予習復習時間はまったく増えていません。それは、日本の大学生が不真面目だからでは決してありません。科目が多すぎて、それぞれの科目の予習復習をすることなど不可能だからです。講師もそれを知っているので、厳しいことはあまり要求しません。つまり、大学教育の制度に問題があるのです。

 各大学でそれぞれの事情があり、一足飛びにこの問題を解決していくのは難しいと思います。しかし、改革の正しい方向は明らかなので、時間がかかっても、学生の履修科目数を減らし、各科目の平均単位数を増やすこと、つまり大学での履修科目を少なく重くすることにすぐ取り掛からなければならない、これは重要な制度上の課題です。

(つづく)
【金木 亮憲】

<プロフィール>
吉見 俊哉(よしみ・しゅんや)

 1957年、東京都生まれ。東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授兼東京大学出版会 理事長。同大学副学長、大学総合研究センター長などを歴任。社会学、都市論、メディア論、文化研究を主な専門としつつ、日本におけるカルチュラル・スタディーズの発展で中心的な役割をはたす。2017年9月から2018年6月まで米国ハーバード大学客員教授。著書に『都市のドラマトゥルギー』、『博覧会の政治学』、『親米と反米』、『ポスト戦後社会』、『夢の原子力』、『「文系学部廃止」の衝撃』、『大予言「歴史の尺度」が示す未来』など多数。

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