沈香する夜~葬儀社・夜間専属員の告白(5)
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「死体洗いの高額なアルバイト」。人や地域によって、話のディティールに小さな違いはあるそうだが、昭和育ちの方なら一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。
勤務先は大概、大学の医学部で、授業が行われていない夜間のバイトだ。ホルマリンで満たされたプールには、人体解剖用の身元不明の遺体が何体も入っており、仕事内容は浮かび上がって来る遺体を木の棒で突っついて沈める作業を一晩中、行うというような話だ。
10代後半の私は、大学に行くような頭脳も金もなく「とにかく、一気に資金を稼ぎ、海外で一攫千金、アメリカンドリームを叶えたい」と考えており、この高額バイトを本気で探した時期がある。友人の兄や外科医のインターンからトッポイ稼業のお兄さん方々、ありとあらゆる人に尋ねて回った。
すると皆、口をそろえて「知っている」「友人の友だちがやっていた」という答えが返ってきたが、応募先に辿りつけたことは無かった。いま考えれば、ツッコミどころ満載の只の噂話だったことに気付く。まったく馬鹿げた話である。しかし、当時「知らない」と答える人物は私の周りには居なかった。その後も「高齢マダムのお相手」などの高額バイトの噂を聞けば応募先を探し歩いた。
これらは、すべて30年以上も前の話である。今では「死体洗いのバイト」の噂の出所は、ノーベル文学賞受賞作家である大江健三郎氏の著書「死者の奢り」に由来する都市伝説であり、皆がつくり上げた架空のバイトであると広く知られている。
さて、このようなことを今頃、なぜ思い出したかというと前回紹介した通り、葬儀場の白板には葬儀が滞りなく行われるようにたくさんのスタッフの進捗状況がわかるように表記されている。その白板の一部に「湯灌」と云う欄がある。
ご存知の方も多いと思うが「湯灌」とは葬儀前に専用の湯船で御遺体を入浴させ、御遺族の前で丁寧に慎重に清めていくことだ。入浴によって清められた御遺体を真っさらな装束に着替えさせた後に髭を剃り、死に化粧を施して棺に納める。
映画「おくりびと」のヒットもあり、今では湯灌を行う者を納棺師と呼ぶのが一般的となっているようだが、一連の所作は流れるように乱れはなく荘厳な雰囲気・儀式の中、粛々と行われる。彼らの仕事はプロの仕事であり、アルバイトが付け入る隙はない。
この湯灌は納棺の行われる際に行われ、もっぱら通夜の日の午前中に執行される。よって私のような夜勤者が見る機会は実際にはない。私は前述の白板にて、その予定を確認する程度の関わりである。しかし、湯灌を施す前の御遺体と夜をともに過ごすことは多い。死後硬直していた御遺体は湯灌によって柔らかくなり、死に化粧により生前のような御顔を取り戻す。それを見た御遺族が喜ぶ姿をみると「何より」だと感じる。
その夜は、当たり前のように訪れた。腎臓を患い、それを契機に多臓器不全となっていた私の姉の死である。彼女は36歳で亡くなったのだが、若かったからか何度も何度も危篤状態を繰り返した。一年近く、死線をさまよい、こと切れた。
そのような死に様だったので、元気だった頃を思い出せない程、体も顔も痩せこけた状態で逝った。病院でも簡易的な処置は看護師が行ってくれる。狼狽する母親に代わり、葬儀社と打合せを行ったのは長男で実弟の私だった。当時の私は若く、葬儀のことなど何もわからなかったが、葬儀社の担当者のおかげで、無事に葬儀を済ませることができた。湯灌を終え、納棺された姉は見違えるように美しく、元気に笑っていたころの姿を取り戻していた。遺族として、本当に感謝している。
「死体洗いの高額バイト」は実在しないが「湯灌」と云う高尚な仕事は存在する。比べることは不謹慎で、嫌悪感をもたれるかもしれないが、その嫌悪感こそが「死者の奢り」ならぬ「生者の奢り」なのでは…と考えた今夜だった。
(つづく)
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